七代目鶴澤寛治 彦六系芸風を引き継ぐ唯一の伝承者

2013年10月31日更新

 

文楽の三味線弾きは、大夫の語りに応じて、強く、ときに優しく、リズミカルで、また激しい撥さばきで情景を奏でる。撥一つで、物語に登場する人物や情景を表現できる。

 

義太夫節の用いる太棹三味線には、朱といわれる曲付けが残されているがあくまで手数の控え程度のもの。記録された楽譜はない。三味線弾きは浄瑠璃の文章すべてを暗記したうえ、曲はすべて覚えるしかない。表現するうえでは、大夫の語りの伴奏と受け取られがちだが、自己主張もする難しい芸ともいえる。太夫と息を合わせるというよりお互いの実力を知ることで自然と合うものと言われている。

 

楽文楽(らぶんらく)、今回の技芸員インタビューは、文楽三味線弾きの最古参、人間国宝である七代目鶴澤寛治師匠です。

 

 

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七代目鶴澤寛治師は、昭和3年に京都で生まれた。本名は白井康夫。父は六代目鶴澤寛治。6歳から琴を習い13歳で義太夫節の稽古を始める。昭和18年、父に入門する。寛子(かんこ)、寛弘(かんこう)を経て、昭和31年(1956)に八代目竹澤団六を襲名。平成6年(1994)より三味線の最高位である三味線格となる。平成9年(1997)6月人間国宝となる。平成13年(2001)1月、父の名跡を継ぎ七代目鶴澤寛治を襲名。二代目豊澤団平の彦六系芸風を引き継ぐ唯一の伝承者でもある。

 

 

―9月の公東京公演、11月大阪公演は伊賀越(伊賀越道中双六)の通し上演ですね。伊賀越での思い出があればお聞かせください。

 

私の父、先代の寛治が昭和49年に国立劇場小劇場で沼津(伊賀越道中双六 沼津の段)で三味線を務めました。太夫は四代目津大夫師匠でした。

その時父は87歳でしたので、「いつなんどき舞台を降りるかもしれんさかい、後ろで控えておれ」と言われてました。私は、父に何かあって舞台を降りたら、すぐ代わりで出るつもりで腹巻きをして、もちろん降りられたら困りますけど、いざというときの準備をしておりました。しかし、とうとう楽日まで降りることはありませんでした。

「お父さん、しんどかったらいつでも代わらせてもらいまっせ」って言うたんですけど、「何言うてねん、おまえに弾けるか。お前が後ろに控えてくれてるさかいに弾けんのんや」と言うてね。公演期間中、もし降りてもいつどこでも代われるように準備して後ろについていたことを思い出しますね。

 

― いいお稽古になりましたね。

 

はい、その通りです。ただ聞いているだけじゃなく、出る準備をしながら聞いてますので集中してます。そりゃあ必死でした。しかし、そういうことがあったんで自分が弾くときのことを考え稽古をしてもらいましたけどね。それで沼津の印象が深いわけです。今度の9月に東京で弾かせてもらうときには、師匠や先輩の方々に思いを馳せながら弾きたいと思っています。

 

― そのときは(昭和49年)、一段全部おやりになられたんですか?

 

はい、一段でしたね。昔は一段を一人の太夫と三味線弾きでやるのは当たり前でした。だんだんに太夫の数が多くなってきて、興業の方法やそれに伴う時間配分もあって今のようになりましたね。この9月公演も、年齢や体調のことも考え、三つに分けられていますね。しかし、一段は一人の太夫と三味線で聞いて味わうのが本来ですね。

(※国立劇場アーカイブによると、「昭和49(1974)年 2月 3日~17日 伊賀越道中双六 沼津の段 四代目 竹本津大夫 鶴澤寛治(6代)78分」と記載されている)

 

― 寛治師匠の記憶に残っている太夫さんはどなたでしょうか。

 

三代目の津大夫師匠は名人と言われた太夫でしたね。最初に聞いたのは私が小学生の時分に逆艪(ひらかな盛衰記 逆艪の段)でしたが、最初は何を言うてんのかさっぱりわかりせんでした。だんだん聞いていくうちに、もっと聞いてみたいなと思いましたね。ですから浄瑠璃の芸がよければ一段ずっと聞けますけど、下手な太夫さんでしたら、一段であろうと半段であろうと辛抱できないですね。上手な太夫さんを聞いてたら途中で太夫が変わってしまうのは本当に残念ですね。

三代目の津大夫師匠とうちの父が沼津をやりまして、津大夫さんが「ここも名高き・・・」と言うてられているとき、このおっさん何言うてんねやと思いました。喉がゴロゴロしてて言葉もわからんのです。ところが、聞いてるほどだんだん良くなるんですね。最後になったらその悪い声で、平作、お米、老人も女性も変わってくるんです。名人って大したもんです。もっと聞かしてほしいな、替わらんといてほしいな、と思いました。観客に情や性根を伝えられるのが名人といえますね。

 

― 名人の素晴らしいところって何でしょうか。

 

声だけではなしに腹で溜めてから声に出すという感じでしょうか。義太夫節には「一声・二節・三言葉」がありますが、今は一声のお方がほとんどいないんですね。

父が言うてたことですが、先々代の越路師匠は大和屋のはじまりで「ここを瀬にせん蜆川・・・」と語りだすと、お客さんは手を叩くのを忘れて「おぉぉぉ」という声が劇場から聞こえたというんですね。私は、普通は手を叩くのにそんな馬鹿なことがあるもんかそれは嘘や、と子供心に思うておりました。

いつでしたか、四ツ橋文楽座で春子大夫さんが、父の三味線で一の谷嫩軍記の磯端で、「こいつを斬って」と言うたとき、「うぉぉぉぉ~」って聞こえたんですね。父が言うた越路師匠の声でお客さんが唸ったんはこんなんか、と思いました。何でそんな声になるんか、御簾内からお客さんの顔を見てました。

文楽座はその時分700名くらい入ってましたかね、そしたらお客さんが一斉に「こいつを・・・」と言うと、その唸りになっていったんです。春子さんを聞いたんは戦前、昭和19年頃だったと思います。それを聞いた後は、組討の太夫さんが飛んでしまいましたけど。ほとんどのお客さんが帰りはりましたからね。

それ聞いて以来、その後そんな声の存在感のある太夫さんは聞いておりませんね。春子さんは声のいい人で、津大夫さんは節、相生大夫さんは、言葉でしたね。義太夫節は「一声二節三言葉」ですね。文楽にはそんな太夫さんがいたらもっと文楽は盛り上がりますね。私は子供の頃、最初は人形さんに目がいきましたけれど、だんだん太夫さんの浄瑠璃についていくんです。

 

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先代没後、国立劇場にて努める
太夫は四代目竹本津大夫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

― 師匠の思い出に残っていらっしゃる太夫さんはどなたでしょうか。

 

竹本錣大夫さん、ケレンものが得意でして、チャリは日本一でした。

錣太夫さんは落語にあるような、浄瑠璃を質屋に入れたという人でした。父が鴻池さんのご本家で浄瑠璃を語りに、錣大夫さんと行ったんです。お座敷で当主に「今日は何を語ってくれるのや?」と聞かれ、「今日は、こんなもんをやろうと思うてまんね」と言うたら、ご本家は「すまんが、油屋(伊勢音頭)をやってくれ」とおっしゃる。

錣さんは、「いや、今日はやれまへんね」

「あんたいつもやってはんねんのに、何でやれへんねや?」

「あれやったらいけまへんね、いまやれまへんね」

「なんでや? そな言わんと、やってえぇな。頼むさかいに」とおっしゃる。

しかし、錣さん、頑としてやりまへん。

しばらくの間、ご本家は考えて、「ひょっとして、あんたそれ質屋に入れたんとちがいまっか?」

「そうでんね」と錣大夫さんは答えました。

ご本家は、「質札を持って本(床本)を取ってきなさい」と、番頭さんを質屋へ向かわせ、本を取ってきて、錣大夫さんと父(先代寛治)は油屋をやったといいます。

 

― いいお話ですね。

 

本当の話です、落語じゃなく。

 

― 質屋さんは太夫さんの本でもお金を貸してくれたんですね。

 

はい。質屋さんもお金を貸してくれるし、太夫さんも質屋に入れたら節度をもって絶対その浄瑠璃はしなかったですね。えらいな~、と子供心に思いましたね。それは、昭和の初めのこと。私が入る前の話です。

 

 

― 粋ですね。芸をするほうも、また聴く人、支える方も粋ですね~。

 

時代も変わりましたね。文楽の世界だけではないと思いますわ。時代の大きな変化がありますから、そんな粋なさまを見るのはなかなかないですね。文楽を取り巻く世界も変わりました。稽古の仕方も変わってしまいましたね。昔は太夫さんがお弟子さんをもったら、三味線弾きさんに預けたりしました。声の出し方や間の取り方をね。ある程度出来上がったら太夫の師匠が稽古をつけるんです。

 

― 三味線さんに預けるのはなぜなんですか?

 

三味線弾きさんが、この子の声はええな、これやったらこういう語り口をやらさないかんなとか、この子は三段目の語り口をやらさないかんなとか。それを仕込んでくれるのが三味線弾きなんですね。

ところが戦後、父(先代寛治)や喜左衛門師匠が亡くなれてからは、太夫は太夫が教えるもんやという風潮になりましたね。本来は三味線弾きが、赤ちゃんを育てるように方向性を決めて稽古してあげるのがいいんです。

父がよく言いました。「お茶碗一つ叩いたらチーンと、いい音がする。割れてしまったらもう二度とチーンという音は出ぇへんで。それと同じで、声を潰してしもうたら二度と声が出ない。初めが肝心や。デハ(初め)を考えないと太夫は育たんのんです。

いろんな太夫の語り口があって、お客さんは楽しまれたんですね。千代の南部さん、土佐大夫さん、上手なかたには「待ってました!」と声がかかりました。いっぱい個性的な太夫さんがいてはりましたな。今は特徴的な方が少なくなりました。浄瑠璃を聞いてますとみんな同じですわ。それじゃ文楽は続かない。今の太夫さんは、太夫が教えるようになってます。三味線弾きは声のいい太夫を弾くこともあれば悪い人のを弾くこともある。三味線を弾きながら太夫の特徴をつかまえて教えます。あとで大夫の師匠からまた教わればさらにいい。でも、三味線弾きは太夫に教えても一銭の得にはならんのですけど、文楽全体のことを考えればそんなことは言ってられない。もっと三味線弾きが太夫を教えることは文楽のためには大事ですね。

研修制度でも昔は三味線弾きが、勝太郎(野澤)師匠、弥七(竹澤)師匠、重蔵(鶴澤)師匠という面々が太夫も三味線も教えてましたね。文楽を育てるには、もっと三味線弾きが太夫を教えるべきです。

 

― もちろん今でもそういうケースはありますね。

 

はい、私は今でも教えてます。

昔みたいに相三味線なら太夫と三味線がずっと一緒でしたが、今はメンバーが変わりますわね。これじゃなかなか教えられません。

うちの父(先代寛治)が以前、「織大夫(現源大夫).は自分の浄瑠璃を拵えたな」、と言うてました。実力あって若い時からそう言われてましたね。名よりも実を取った太夫さんですね。

いつだったか、ある大学の先生に、「芸人になんのんか? 芸術家になんのか?」と聞かれました。芸術家というのは、芸に対しての深く入り込むという思いがありましたね。その頃から、源大夫(当時の織大夫)は「(実力があって)おそろしい奴っちゃ」と言われてました。

 

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戦災後 四ツ橋文楽座正面
左から、竹本源大夫(当代)、鶴澤寛治(当代)、竹本住大夫(当代)

 

― 源大夫師匠の三味線を弾かれたときの印象はいかがでしたか?

 

安心して弾いてましたね。自分がこうしようとかではなく、こちらがこうやるとあちらはこうでる、あちらがこう出るとこちらはこうでる、お互いが触発できましたね。

 

― お互い、実力と感性があるからこそできることなんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい。文楽には、文楽系統で彦六系統がありますが、お互い実力があれば違いを超えても乗り切れます。三味線には文楽系統と彦六系統がありまして、その方法をめぐって太夫と三味線弾きは意見があるときにはぶつかります。亡くなられた弥七(竹澤)師匠は芸に詰まられたのでしょう。文楽系の太夫さんを弾いたんですけど、芸に違いが出るんですね。自分がこう弾こうと思うても弾かしてくれない。お互いがそれぞれに主張しますから、息詰まることもあるんですね。弥七師匠はそうだったと思います。

 

―師匠が行き詰まったときはどうされたのですか。

 

私も行き詰まったことはありましたけど、父がそばにいましたので助かりました。父は団平師匠に教えを乞うたり、彦六系統のお師匠さんのところに行って教えてもらっていたそうです。

彦六系統とは三味線が物をいうんですね。文楽系統は手数が多いんですね。遊女を弾く場合でも、堀川のおしゅんなら、橋下の遊女ですから色気と卑しい女性を意識して弾きますし、阿古屋や夕霧には品があるので、細かな情を三味線でひきわける、腹でこしらえていくんですね。阿古屋では、本来なら遊女は内掛け着て白州に出てきませんわね。ところが嘘であって内掛け着て八文字踏んで、出てくる感じを聴かせるんです。遊女の品格を表す、阿古屋の出は難しいと教わりました。三曲では、琴では「なんとかして景清を助けたい」と訴えている。三味線では「これでもきいてくれんか?」という思いになり、胡弓になったら「どうでもいい、やけくそや!」 というような気持ちで弾かないかんと教わりました

うちの父も団平師匠や彦六系のお師匠さんから教わりました。とにかく、同じ曲でもあっても弾き方、表現の方法が違うんです。道行では「ノル」というのが肝心なんです。つまり道中ですからいつでも景色が動いているから景事というんですね。景事のときにはノッてなきゃいけないのに、じゃらじゃら弾いてたら景事にはならないんです。手も回らないけませんが、弾きすぎてもいけません。ここは三味線の領分、ここは太夫の領分という、それぞれを意識せないけません。

(寛治師匠は、堀川の一部を口三味線でその比較して教えてくれた)

今公演(2013年夏)の妹背山の道行でも、求馬はお公家はんですが、色気もないといけない。色気が出ないことも多いですわな、今は。そういうことも教えてあげないけませんな。

 

― 三味線の表情は技術だけではありませんね。

 

はい、心と情ですね。たとえば阿古屋をやったとき、

文五郎師匠が私に「寛子ヤン、あんたは鮮やかに弾いてるけどな、人形遣いには鮮やかに弾いたらあかんのや。逆やんねん」。「三味線はこう構えて弾くやろ? 人形が三味線弾きと同じように弾いたらあかんねン」と言われました。

芸は、「嘘」をほんまらしく、オーバーに表現する。

昔、舞台で「これは雪の手です」、「これは風の手です」「これは・・・」、と解説をして舞台から降りたんです。舞台から降りてきたら、父が「嘘ばかり言いやがって。お前は詐欺師じゃ」と怒るんです。

「雪はチンチンと、これは雪の手じゃないですか」と言うたら「それは三味線の手じゃ」、と。「雪というのは、どんな雪やろ?とお客さんが聞いてて想像してこそはじめて雪の手や。お前は心で弾いてない。雪やない、ただの三味線の音や。雪の手を弾いてこんかい!」と言われましたね。

父は死ぬまで雪の手にこだわっていましたね。

九段目(仮名手本忠臣蔵 山科閑居)の最初もそうですね。「一番初めはどんなやったか知ってるか? 忠臣蔵九段目の雪は、雪が深くて吹雪いていて、チ~ンチ~ンと、雪が吹雪いているんのをお客さんが想像できるのが、ほんまの雪の手や」、と。私に伝えておりますけど、なかなか出来ませんけどね。父は「出来たときは死んだときやで」と言うてましたね。

 

― 一生の修行ですね。師匠は何歳から三味線を始められたのですか。

 

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18歳頃
文楽座に入座した時

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大阪堂島の自宅で
右より二男(寛治)
中央上、三女(姉)
中央下、四女(妹)
左、三男(弟)

 

 

物心のついた6月6日からお琴の稽古を始めるんです。三味線は重たくて持てないので13歳頃になってはじめて義太夫の三味線を持たせてもらうんです。それまでは、琴と胡弓で音感を学ぶんです。父が師匠でしたし、周りには三味線弾きさんがいっぱいいましたから、三味線を習う環境には恵まれていましたが、やはり戦争中のこと。芸人というたら非国民と言われていましたからね。大東亜戦争の始まったころ三味線の稽古をしてましたら外を歩いている人が、内に向かって「非国民!」って声をかけられたんです。そんなことがあったんで、私は文楽の三味線が好きでしたけど三味線弾きには絶対になるまいと思ったんです。

あらためて自分が心を入れ替えたのは、昭和20年3月20日の空襲で焼けた時ですね。その翌日に伊丹の航空隊へ慰問に行ったんです。隊長さんが出てこられて、「日本はお終いや、負ける。我々は職業軍人でお国のために戦っている立場やけど、日本は負けることが目に見えている。これからの時代は文化やで。あなたがたのやっているのは立派なことや。日本の伝統文化を最後まで残してくれ」、と言われました。

それから戦局が悪化して終戦を迎え、そして進駐軍が来て、それでも文楽を残してくれはりましたね。

 

― 大阪市長に伝えたいですね。長い年月を費やして形をなした文化を、たった数年の市長の任期中に自分の考え方だけで、文化を潰してしまいかねない政策は許せまんね。

 

先日、電気倶楽部という所で、この話をしたことがあります。市長がどんな気持ちで聞いてはったか知りまへんけどね(笑)。

 

― 文楽の素晴らしさを知らないということ、そして文楽そのものを知ろうとしない、のが問題ですね。

 

昭和37年に文楽が初めてアメリカへ行きました。その時、マスコミやお客さんから文楽は素晴らしい芸術だと言われ、自信を持ったことを思い出しますね。

ハワイ大学では、うちの父を筆頭に、津大夫さん、勝太郎さん、そして私とで、人形さんなしの素浄瑠璃をやりました。学生が退屈したらいかんさかいに、堀川の猿回しと寺子屋をやったんです。後で回収したアンケートを見て、「何が良かったか?」という質問に、寺子屋がたくさん書かれていました。浄瑠璃の文章と雰囲気、松王で千代、そして子供が可哀そうだ、と。

又、パリでは妹背山(妹背山婦女庭訓)の山の段を持っていたんです。外人さんには難しいだろうと思いつつ。ところが、雛流しのところでは、お客さんが涙を流されているんですよ。今みたいに字幕もなく、本だけを読んで聞いておられるんです。浄瑠璃を聞いて、おしゃれなパリジェンヌが、マスカラでしょうか、黒い涙を流されていたんですね。私は義太夫節の持っている力を改めて認識し、稽古を疎かにしたらいかんなと思いましたね。

竹本座が出来たころの義太夫節の形は想像できませんが、300年間の皆さんの修練と稽古の賜物で大きく育ち、立派な芸術になったんと思います。

 

― 原型はさまざまな形に変化していったのでしょうね。

 

段が変わるときに「おくり」がありますね。吉原の揚屋では、部屋から部屋に変わった時に弾くんですね。「おくり」にも弾き分けがありまして、はじめは三重(サンジュウ)だったそうですが、今は「引き出し」とい手になっています。なぜ変わったのかと言いますと、こんなことがあったそうです。

舞台が始まり、三味線を弾こうとしたら、大道具が落ちたんです。客席の方へ落ちましたから幕は引けないですね。と言うて止めるわけにいかない。「何とかしてください」と大道具さんが三味線弾きに言うてきたんで、三味線弾きが咄嗟に、吉原の太夫の道中はこんなやろと思って演奏し始めたんです。そして舞台が出来上がって、本題へ戻ったんです。

その話をした時、ある偉い先生が、「テープもない時代に今でも残っているのは」と質問されたことがありました。その時分には若い三味線弾きは御簾内に上がってお師匠さんの音を朱にして譜を書いたんです。そやけど、一人で書いていたら無理やけど、何人もが書いていたから、あとで照らし合わせることができて今では「引き出し」として残ったんです。そんな風にして、積み重ねていくことで良くなってきたのですよ。

地道な小さな作業を積み上げていくしかない。テープや映像はもちろんなかったわけですから、当時は師匠たちから「暇があったら楽屋におらんと御簾内へ入れ」と、よう言われてました。師匠や先輩たちの演奏を聴くのが最良の稽古でもありました。寝ていたら先輩からゴツンとどつかれました。

とにかく、聞いて覚えるしかないんです。

昭和29年だったか、テープレコーダーがあったんです。大丸の当時社長の北澤さんが「それで勉強せい!」と言って、高い機械を買うてくれはったんです。便利ですさかいに録音して勉強しました。だんだん良うなりますわな。稽古の時にそれを持参して行ったんですわ。そしたら弟子が共全部並べられて、怒られました。「お前らはなこんなもんに頼って何事や。芸というもんはな、前で顔を合わせて覚えるもんや。テープレコーダーがあったら、今覚えられんでも後から聞いたら分かる。そやから覚えられへんのや。テープというもんは、水に浮いた氷と一緒やで。表面に出ているのはちょっとだけや、見えないところにある氷の底は大きな大きな塊があんのや。どうして覚えるかといえば稽古やないか。見台の前にくる稽古やないか。テープで覚えたらあかん」と云って、えらく怒られました。それでも隠れて撮りましたけどね(笑)そんな時代でしたね。

 

 

― 先代寛治師匠の思い出をお聞かせください。

 

父が戦後、四国の新居浜やったかな、そこから三味線弾きの方が弟子入りさせてくれ、と二人来られたんです。一人は盲目の方でした。でも、目の見える人は、稽古が厳しかったせいか、途中でいなくなってしまいました。ところが、目の見えない人は帰りしまへんね。どうしても稽古してくれ、って。父は文楽の人で目の見えない人を稽古したことないんですね。目が見えてるさかいに「こうやれ、ああやれ」と見せることで教えられることもありますけど、通じしませんね。「わしは、悪いけど盲目の人に稽古したことがない。どないしていいのかようわからん。悪いけど帰っておくれ」と断ったんですけど、どうしても帰りません。一週間毎日お嫁さんに手を引かれて通ってくるんです。うちのお袋が「あんた、あれ程頼んでるのやから教えて上げたらと口添をしたのです。それでも渋々「なんとかやったろ」というて受け入れたんですね。

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東京公演の後、東京駅にて
六代目鶴澤寛治と

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

稽古が始まっても、その人はしばらく三味線を持たせてもらえませんでした。父は「わしの稽古をしているとき、後ろからわしの腰を持て」と言い、一ヶ月間それだけでしたね。師匠の三味線の音を聞きながら、師匠の腰を持ち続けました。三味線を弾くとき我々は、腰から腹にぐっと力をいれたり、引いたりしますから、「盲目の人には伝わるやろ。それを覚えろ」と。そして一ヶ月目にやっと手数を教えていくわけです。とうとう3年辛抱されましたね。稽古している姿は見ているだけでもきつかったですね。そしてうちの弟子にしてやると言うて、「鶴澤寛五郎」と名付けたんです。最後は父の横で堀川の連れ弾きをさしてもろうてね。立派な三味線弾きになりまして、地元に帰ったら有名になり、稽古をお願いする人がわんさときたんですね。でも、そのあといろいろあったんでしょうね、早くに亡くなられ、惜しいことをしました。教えるほうも大変でしたけど、教えられるほうもよう辛抱しましたね。

 

― 三味線弾くときは、体を使われるんですね。

 

ええ、お客さんからは見えませんけど、演奏中は両足の間に腰を落として、ぐっと腹に力を入れてます。また、三味線を弾く時は息の使い方がありましてね、吸う息も使います。吸うときに弾く三味線の音は軽い撥が使えます。義太夫の撥遣いは無数にあります。表、裏、捨て撥、打ち撥、ハネ撥と、手は同じなんですけど、腹や息の使い方で変わるんですね。ですから体の使い方というのは大切なんですね。

 

― 三味線弾きさんが太夫さんを教えるのと違いはありますか。

 

太夫さんは自分の持ちもん一本ですね。三段目語りをする人はずっと三段目ですね。そやから、ええ声の人が来ても、師匠は自分の得意を教えようとします。ええ声を持ってても無理矢理にさすから、ええもんが出来ないんです。その人の良さを伸ばしていくことも大事ですね。

「団平・大隅太夫」時代の大隅大夫さんは声があまり良くなかったそうです。その方が酒屋のさわりを語るんです。どないして語るんやろとみてたら、「いまさら帰らぬ…」と低く出るんですね。えい声の高い人は「いまさら帰らぬことながら…」と。寛治師匠は二つの例を実際に語ってくれた。

高いキーで出る太夫が多いんですね。声があまり良くない太夫さんが高い声をだせば、調子も乱れますし、聴いてる方もあんまりいいもんじゃないですわね。今でも若い人に言いますけど、大きな声を出すのは結構や、そやけどアホ声は出すなと。声が悪くても、低くてもお腹に入った声やったら女性役を聞いていても違和感がない。腹を使わず声だけでいってしもうたら、お客さん聞いててしんどいですわ。最近の若い人たちはそれにちかいことをしますね。気張ったらいかん、というのはそういうことですね。腹に貯めてて「おぉぉぉ~」という発声をするんです。

 

― そういう手法は皆さん若いときから心がけてらっしゃるんですか?

 

ええ、そうです。常に意識していると出来るんですが、今の太夫には発声の基本ができてない人がまだまだ多いですね。そういう発声を三味線弾きが三味線と一緒に教えるのも大事なんですね。

 

― 三味線弾きさんが教えるほうが自然な流れなのでしょうか?

 

三味線の高い音だけを聞いて、太夫が高い声を出したらあかん、三味線が高い音であっても、腹に力を入れて声を出すほうがきれいに聞こえる。言葉にすると難しいんですが、体で覚え、耳覚えるんです。難しいですわ。そやから、この商売は死ぬまで修行ですね。

 

 

 

 

当代鶴澤寛治は平成9(1994)年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。彦六系統の三味線を受け次ぐ三味線弾きである。

 

 

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重要無形文化財授与式典の後

 

 

 

彦六系統について記しておく。植村文楽軒が引っ張る文楽座に対抗して、明治17年(1884)頃、非文楽系の人たちが彦六席という文楽の芝居小屋を大阪の船場に開いた。彦六席は、十八(とうはち)という芸名の長堀の酒造灘屋主人灘安こと寺井安四郎を中心に、初代竹本春子太夫、竹本源太夫等が参加し、彦六座と改名した。やがて文楽座の太夫が彦六座に参加し、二代目豊澤団平をも引き抜いたのである。春子太夫は、三代目竹本大隅太夫を襲名し、二代目団平とコンビを組み、ここに松島文楽座と彦六座二座の時代が幕を開ける。彦六座では古典の上演ばかりでなく新作も作り出した。それが後に名作として残る明治19年(1886)初演「壷坂観音霊験記」と明治20年(1887)「良弁杉由来」である。彦六座の芸風は、三味線が際立っているのが特徴だ。それを引き出した代表格が二代目豊澤団平なのである。しかし、明治21年(1885)に起こった小屋の火事により座の運営は衰退し、明治26年(1893)、彦六座は幕を閉じた。やがて、発足した稲荷座でも経営難にぶつかり、彦六系統の中心的存在であった団平は、「花上野誉石碑」の志渡寺の段を演奏中に撥を持ったまま動かなくなり、そのまま72歳で世を去ったのである。その彦六系の芸は引き継がれ、その中心にいるのが六代目鶴澤寛治師匠である。

 

この彦六系統の三味線というのは、うちの父は彦六を崇拝してまして、系統というよりも、教えてもらった繋がりのことですね。あとの人は文楽系統の人ですね。ただ、彦六系統の真似も時折してられます。でも、その弾き方があるんです。弾き方、撥の使い方に、手数だけじゃなしに、それを知らんことには彦六系とはいえませんわね。ノリマを持つとか、色気があるように弾かないかんねんでとか、ごつい中にも色気があるように弾くとか、特に団平師匠が研究されていたんですね。

三味線弾きさんもたくさんおられましたけれども、彦六系統では団平に始まって団平に終わると言われるほど、豊澤団平師匠は名人だったそうです。

うちの父が、「団平師匠が亡くなったとき焼き場へ向かう行列が長った」と言うてました。その時分、文楽に関わる人はお金が沢山あるわけでもなし、それで文楽の三味線弾きは舞台で着る着物、肩衣を着て、お弟子さんや素人さんも、団平師匠に関係する人たちはほとんどがお供したそうです。それほど慕われた人だったそうです。

 

 

― 団平師匠とは、壺阪(壺阪霊験記)を作曲された師匠ですね?

 

 

そうですね。この壺阪にも逸話がございましてね。本来、壺阪の本堂は坂の下にあるんですね。

「上る段さへ四つ五つ・・・」で始まってますから。

壺阪が出来た当時、お千賀さんが(豊澤団平の妻、加古千賀女のこと)書いて、初演した大江座での舞台では、「下る段さえ四つ五つ・・・」だったんですね。そしたら堂島の米相場では、団平が拵えたなら、とみんなで出かけて初日は満員になったそうです。それが、あくる日になると誰も来なくなったんです。それで、何が悪かったのか、堂島へ聞きに行ったんです。

「あんたな、団平か知らんけど、相場の所にいる人間に『下がる段さへ四つ五つ』いうて、下がる段なら誰が行く!」って言われたそうです。ほんまは下がる段でしょうけど、ここで「下がる」とやったら誰も来まへんので、「上がる段さえ・・・」に変えていただけませんかと言うたんですって。それで団平師匠は理解して、「上る段さえ四つ五つ」に変えられたそうです。これが作り物の良さでしょうね。

 

 

余談ですが、堂島の米相場ではいろいろとゲンを担いだそうです。贔屓にしてやろうという芸人さんには、芸人さんにお祝いごとがあったらお米を三俵包んでくれはるんですね。うちの親父が寛治郎を襲名した時には十俵も包んでもらったこともありましたね。「お父さん、良かったね」って言うたら、「何言うてんね。十俵は一回きりやで。三俵はその芸人が死ぬまで毎年やで」と言うてましたね。「我々堂島の贔屓にしている芸人の記しや」というんです。お正月に紋付を着て挨拶に行く時は、麻裏の草履なんですね。雪駄を履いて行ったら「おまえなにしてんね」と言われて追い返されたそうです。そんな時代やったそうですね。うちのオヤジが鶴澤寛次郎に襲名の挨拶の時に、そんなことを教えてもろうたそうです。お米を十俵もらって、お米屋さんに預けて、少しずつもってきてましたね。

 

 

― 今の若い三味線弾きさんたちをご覧になっていて、どう思われますか。

 

 

時代が違うといえばそれまでですね。生きていくための物に対する意識がとうぜん今と昔では違いますから。

昔は階級が厳しかったですね。三味線弾きかて、尺澤、半澤、本澤がありますね。芸を見込んで変化していくんですね。入門したては尺澤です。上達してきたら半澤になって、やがて本澤になります。それを決められたんが松竹の白井松次郎※さんです。今は興行する側に権限もありませんし、聞き分ける耳を持った方も少ないですね。

入門する時も着物からして違うんです。入ったときは角帯で木綿じゃなければいけない。私は学生でしたので楽屋に入る前に近所で着物に着替えさせてもらうんです。それでないと楽屋入りさせてもらえなかったんです。着付けも半澤の者は木綿、上になってきたら紬とかね、だんだん良くなるんです。給料も良くなりますしね。昔は文楽は修行の場ですから給料が少なかったですから、寄席やほかで、今でいうアルバイトをして凌いでました。それを目標にしてました。芸人にお金を持たすもんやない。目標を越す、あいつを越さないかんという思いでもっと勉強します。もしも代役が来たら若い者が競って舞台へ上がろうとしますが、邪魔をしてなかなか出してくれへんのですって。でもそれで認めもらうわけですから。それでうまくやったら給料が上がるんです。私もそうやって上げて頂いたことがありましたね。今はみなさんが紳士ですからね。

 

 

― 昔と今も、文楽の世界だけでなく様々なところで、未来に向かう中で何をどのようにすれば良いものを残していくのかを議論されていますが、さて、文楽はいかがしましょうか。

 

 

やっぱり三味線弾きが太夫を仕込んでいくようなスタイルをしていくべきと、私は思いますね。

声の良い人は喉を潰さないようにしなければいけない。悪い声の人は発声をしっかり教え込んでいくことが大事ですね。また、お客さんにも、大小に関係なく普及の活動は続けていかないけませんね。

 

 

― 素晴らしい文楽の存在を底辺まで知らせることですね。

 

 

ええ、そうです。昭和37年にシアトルの博覧会に行った時、アメリカの方が日本の商社の人に「文楽とはどんなもんや」と聞かれ、商社の方は困られ「知りません」と答えたところ、アメリカ人に馬鹿にされたそうです。文楽というこんな素晴らしい芸術をどうして日本人は見ないんだと言われたんですって。その商社の人は日本に帰って来られて、浄瑠璃を聞いて、それからはまって終いに稽古までするようになりました。こんないいもんを何で今まで知らなかったんだ、と言うてました。その商社の人は先代の錦糸さんのとこに稽古に来られましてね、「ほんまにアメリカで恥をかいた」って言うてられました。

また、人形にしましては、世界では一人遣いか、影絵のようなものが多い中で、三人遣いしているのは日本しかありませんものね。

 

 

― 先日のマレーシアでも人形の動きに驚く方が多かったですね。人間より繊細な動きを感じると感想を述べる方が多かったです。海外でも日本でも初めて見る方は動きのある人形に目がいきますね。それが、物語を語っている太夫と三味線の、細やかな情感や物語に次第に耳がいくようになりますね。こうなると人形+浄瑠璃が文楽として認知されます。

 

 

私もそうでした。最初に文楽を見たときは、弁慶が六法を踏むところや、宿屋の佑仙が笑う場面ばかりを面白いな~と見てました。そのうち人形から太夫さんの語りや面白さに耳がいきましたね。

 

 

― 太夫が物語を語り、三味線が情感を加えて伴奏し、人形が演じると、これが三位一体といわれる、文楽の特徴ですね。

 

 

そうなんですよ。先ほど言いました雪のシーンも、深い雪があるのか、雪が降り始めたばかりなのか、太夫さんは言葉で表現し、三味線は音で表現し、人形は所作で表現します。それが長い期間の修業を経て三位一体の芸術になるんですね。地道に広めていくことが大切ですね。

先日、名古屋(2013年5月)で曾根崎心中をやりましてね、生玉、天満屋をやってて、その間学生が喋って騒いでね。先生が叱っても、止みません。とうとう道行になりまして。しかし、場内が静かになりまして、さらに身動き一つなくなりました。

あとで学生さんの代表の人が見えて花束を頂いたときに、「舞台を見てて三味線がこんなに感情を表現しているのをはじめて知りました」と言うてました。もちろん私たちは真剣にやってますけど、その真剣さが様々なお客様に受け取ってもらえるよう頑張らなければいけないんですね。担当者の人もどないなるかと思ってましたが、心中場ではみんな静かにじぃっと見ていたのにはこちらが驚いたと言うてました。

 

若い人たちにも、お初と徳兵衛の心情が伝わったんでしょうね。私の娘が学校に行ってますときに、学校で聴きに来たんですが、その時は「長局」だったんです。学生には難しいし聞いてないと思ってたんですが、その中の二人が今だに文楽を来てますね。お初と尾上の心情に感激して、こんなにいいもんはないと。

 

 

 

海外、国内に関係なく、どんなお客さんにも一生懸命やれば聞いてもらえる、というのが原点だと思います。

聞いていただくお客様も、見る前の気持ちと、演者の気持ちがおおたら心がつながるんだと思います。

 

 

― 我々観客も一度見て、そして二度目を見て、回を重ねていくことで、伝わってくるものが深くなるような気がしますね。

 

 

私は、義太夫節はお抹茶だと思いますね。初めて口にしたときは「苦い」だけです。二度三度になるとその苦さの中にも美味しさがみえてきますね。文楽もお抹茶とおんなじだと思います。皆さんも、文楽をお抹茶だと思ってください。

 

長時間にわたり、貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。

ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

7
平成13年(2001年)、襲名公演で
孫、寛太郎初舞台

 

 

 

 

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◆五代目 竹本錣太夫 たけもとしころだゆう(明治9年―昭和15年)

◆鴻池財閥 1656年に鴻池善右衛門が大坂で両替店を創業。1877年、第10代善右衛門を頭取として第十三国立銀行を開業。1897年に鴻池銀行となり、1933年、三十四銀行、山口銀行と合併し三和銀行となる。

◆織大夫(現、竹本源大夫)

 

◆吉田文五郎

明治2年(1869)‐昭和37年(1962)。1883年、吉田玉助の門下となり、松島文楽座、吉田己之助の名前で彦六座などに出演。1892年、吉田簑助に改名。1909年、吉田文五郎を襲名。文化功労者となり、1956年に吉田難波掾を拝受した。

 

◆竹澤弥七

明治43年(1910)-昭和51年(1976)。1938年、文楽座に復帰し、七代目団六を襲名。1947年に十代目竹澤弥七を襲名。1969年まで八代目竹本綱大夫が亡くなるまで綱大夫の相三味線を務めたのはよく知られている。1972年、人間国宝に認定。1976年、自殺。

 

 

◆二代目 豊澤団平

文化11年(1828)-明治31年(1898)。加古川の生まれ。1844年、二代目団平を襲名。「壺坂観音霊験記」「良弁杉由来」などを作曲。二代目竹本越路太夫、三代目竹本大隅大夫の相三味線を務める。1898年、舞台に出演中に倒れ、逝去。

 

◆三代目豊澤団平

安政5年(1858) -大正10年(1921)。1907に三代目団平を襲名。三代目大隅太夫の相三味線で活躍。文楽座に出ることが少なかった。通称「仙左衛門団平」。

 

◆壺阪観音霊験記

二代目豊澤団平・加古千賀女(ちかじよ)夫妻が補訂・作曲して,1979年大江座で初演。壷坂寺の近くに住む盲目の沢市と妻のお里の純愛を描いたもの。お里は夫思いで眼を治そう夜毎観音様にお参りしているが、沢市は夜毎お里が家を出るのでお里に恋人でもいるのかと邪推している。ところが、お里は沢市のために壷坂参りをしているのを知り、沢市は己の邪推を詫び、近くの谷に身を投げてしまう。そしてお里も後を追って身を投げる。そして沢市お里の夫婦愛に観音が二人の命を助け、沢市の目も開かせる。

 

◆四代目竹本大隅太夫

明治15年(1882)-昭和27年(1952)。三代目鶴澤清六の甥。1927年、四代目大隅太夫を襲名。

 

◆五代目 竹本大隅大夫

明治36年(1882)- 昭和55年(1980)。父は三代目大隅太夫の相三味線を勤めた三代目鶴澤団平。1930年に四代目大隅大夫に入門し、若太夫となり、昭和35年(1960)。五代目大隅太夫を襲名。

◆竹本春子大夫

明治42年(1909年)- 昭和44年(1969年)。兵庫県淡路島の生まれ、淡路の人形芝居出身。1927年に竹本三笠太夫に入門し竹本三木太夫を名乗る。1940年に3代目豊竹呂太夫の門下で豊竹呂賀大夫と改名し翌年の1941年に正式に初舞台。1943年に松太夫と改名。相三味線を勤めた4代目鶴澤清六の薫陶を受けた。1960年に3代目春子太夫を襲名。

◆六代目鶴澤寛治

明治20年1887年 - 昭和49年1974年。明治29年九代目竹澤彌七の門下で初代竹澤団治郎、明治33年に六代目竹澤団六、三代目寛治郎を経て、昭和31年に六代目鶴澤寛治を襲名。三代目竹本津大夫、四代目竹本津大夫の相三味線を務めた。昭和37年に人間国宝。実子は七代目鶴澤寛治、姉婿は四代目竹本津大夫。

◆三代目竹本越路大夫

慶応元年(1865年)- 大正13年(1924年)。1878年に二代目越路大夫に入門。1898年に竹本文字太夫に改名。1903年に三代目越路大夫を襲名。ちなみに四代目越路大夫(1914年~2002年)は、二代目豊竹古靭大夫(豊竹山城少掾)の門下。豊竹小松太夫、三代目豊竹つばめ大夫を経て1966年四代目越路大夫を襲名。人間国宝。1984年日本芸術院会員。1989年引退。1990年文化功労者。

◆二代目野澤喜左衛門

1891年6月27日 - 1976年5月9日。日本芸術院会員。兵庫県神戸市の生まれ、1899年に8歳で勝市(後に初代喜左衛門)の門下。翌年1900年に3代目野澤勝一の門下で勝平を名乗る。鶴澤寛次郎の預かり弟子となる。1836年に8代目竹本綱大夫と共に新義座に参加、まもなく文楽座へ復帰。1942年に2代目喜左衛門を襲名した。1962年重要無形文化財保持者(人間国宝)。71年芸術院会員。著書には『野沢の面影』がある。養子が3代目喜左衛門。

 

◆白井 松次郎

明治10年(1877)-昭和26年(1951)。松竹株式会社創業者の一人。旧態依然の興行界に新しいシステムを導入したことで知られる。弟は大谷竹次郎。

 

 

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