みなさんが文楽を存分にお楽しみいただけるよう、楽文楽がサポートします!
日本の素晴らしい伝統芸能、文楽を!
人形浄瑠璃文楽は上方で誕生しました。
二〇〇三年にユネスコの無形文化遺産に宣言、二〇〇九年には登録された、各国から注目されている日本独自のスタイルを持つ伝統芸能です。
さて、その歴史を紐解きますと、人形芝居と語り物芸の出会いがあります。人形劇の歴史は古く、路傍や諸国を周り、村々や寺社仏閣で演じられていました。平家物語を語る琵琶法師も同様でした。やがて、物語を語る者と人形で物語を演じる者が出合い、人形浄瑠璃の基礎が誕生します。
浄瑠璃とは、三味線などを使って発展した音曲の語り物です。日本の伝統芸能では、「歌う」と「語る」と大きく二分されます。「歌う」は、情景や心情を抒情的に歌い上げるもので、「長唄」や「地唄」などがこれにあたります。「語る」場合、物語を正確に伝えるだけでなく、その背景や人物の性根などを伝えることが求められ、京都の一中節、江戸の豊後節、常磐津、新内、清元、上方では義太夫節がこれにあたります。
文楽は、一六八四年に竹本義太夫が竹本座を旗揚げし、大阪の町人文化を背景として発展してきました。一六八五年近松門左衛門は「出世景清」を書きました。一七〇三年には曽根崎心中を舞台に掛け、それまで時代の豪傑英雄を主人公としていた物語から、市井の人間を描いた世話浄瑠璃が隆盛を極めました。十八世紀半ばには三大狂言と言われる「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」など名作が多く書かれ、人形浄瑠璃は全盛期を迎えますが、やがて衰退。十九世紀に入ると淡路出身の興行師植村文楽軒が登場し文楽を建て直すのです。
その後、幕府の改革などで各演劇は大きなダメージを受けました。しかし、三代目文楽軒は小屋を移転させながら興行を続け、明治には松島に作った小屋を文楽座と名乗り、文楽は人形浄瑠璃の代名詞になりました。
明治後期になると、文楽は植村家から現在の松竹株式会社に譲渡され、大阪、四ツ橋文楽座が完成し文楽は定期上演され、新しい時代に入りました。しかし、戦争が影を落とし文楽座は炎上、国宝クラスの備品が数多く失われました。終戦を迎えると文楽は二派に分裂し、厳しい社会情勢と闘いながら、その芸を磨き伝統を守り続けて来ました。そして、一九六三年(昭和三八年)には、分裂していた二派が統一されましたが、文楽経営に行き詰まりを見せていた松竹は文楽興行権を手放し、財団法人文楽協会が設立され、現在に至っています。
大阪道頓堀に竹本義太夫が竹本座を興してから三三〇年余。文楽もまた時代の波に翻弄され、一盛一衰を繰り返し現在に至っています。文楽のスタイルは世界でも類を見ない日本独自の伝統芸能であります。かといって堅苦しいわけではなく、敷居も高くありません。身近な演劇として十分に楽しめます。ぜひ劇場へ足をお運び頂いて、ライブで堪能して下さい。新しい発見がいくつもあるかもしれません。