初代 豊竹藤太夫

2019年5月15日更新

 

令和がスタートした5月の文楽公演は、大化の改新という政変をモデルに脚色した名作「妹背山婦女庭訓」。元号の始まりは大化であり、元号が令和となった5月にふさわしい演目が通しで上演されている。

今回の技芸員インタビューは、妹背山の三段目、通称山の段で久我之助を、四段目では鱶七上使の段を語る、竹本文字久太夫改め豊竹藤太夫さん。厳しい文楽の世界にあって丁寧な口調が印象的な太夫さん。藤太夫は東京で初登場。心境などをお尋ねした。

☆ 生まれ変わりさらなる芸道精進

先月の4月大阪公演より、38年間名乗ってきた竹本文字久太夫から、初代・豊竹藤太夫(とよたけとうだゆう)に改名させていただきました。これを機に新しく生まれ変わり、心機一転、令和の新時代と共により一層芸道精進致す覚悟でございます。

☆ 藤太夫のルーツ

私が生まれた所は、三重県度会郡大宮町滝原(現大紀町)という山奥。そこには、伊勢神宮別宮の滝原宮がご鎮座されていています。江戸時代にはお伊勢参りといえば、内宮・外宮・滝原宮の三社を参拝致しました。これを神宮の三社参りと申しまして、とくに江戸時代にはこの滝原宮まで全国から大勢の参拝客が詣でられ、現在ではとうてい想像も出来ない程の賑わいを見せておりました。
私の父、林家の実家は滝原宮の真ん前の家で、宮大工の棟梁を営んでおりました。
また母の北家も滝原宮から歩いてすぐの所で、江戸時代には本陣も営んでおりました。
この北家は室町時代以前からつづく北氏で、この滝原一帯を治め、正平8年(1353年)には領地内に北家の菩提寺である「宝積寺」を建立しております。
延元三年(1338年)北畠顕能が伊勢国司となって以来、北氏もその被官となり、南北朝時代には南朝方についておりました。
江戸時代に入り、特に1800年頃から当主を務めた北藤太夫(きたとうだゆう)(前名・北與五郎)は、七つの溜池を作り田畑を広げ、飢餓から民を救った功により、紀州徳川公から紀州家家老にとりたてられ、北主計道善(きたかずえのかみみちよし)という名を賜りました。

それ以来、我が北家の事を通称、「藤太夫(とうだゆう)」とも、與五郎(よごろう)」とも呼ばれる様になりました。

住居は地名にも「字北屋敷」と呼ばれた程の広大な数奇屋作りで、本陣も務めておりましたので、各地から滝原宮を参拝されるお大名やお奉行方のための上段の間や能舞台までありました。
余談ですが、北一族に伝わる興味深い伝承と致しまして、「源義経が吉野から高見峠を越えて、我が北屋敷に身を寄せ隠れ潜むも、頼朝の追及厳しく、北屋敷を出て伊勢国を経廻し奥州に向かう」という言い伝えがございます。私は眉唾ものと思っておりましたが、北家の亡くなった先代の当主は、実際に専門家と義経の辿った道を調べに行ったとの事でございます。義経がもし高見峠を越えて伊勢方面に向かったとすれば、その経由地である滝原一帯を治めていた北氏の屋敷に立ち寄ったというのも、あながち有り得ない事でも無いかもしれません。しかし残念なことに現在のところ、その証拠となる書物や物品等を見つける事が出来ておりません。
長くなり僭越でございましたが、これが私の今回の改名の原点となっております。

☆ 文楽への道

新國劇公演の新橋演舞場の楽屋で、「国定忠治」忠治の子分役の扮装で(当時22才)

新國劇での初舞台の頃(当時21才) 北条秀司作「王将」坂田三吉の扮装のままの辰巳柳太郎先生と道頓堀の中座前で

 

 

 

高校生の時、テレビ時代劇「男は度胸」で徳川吉宗を演じられた浜畑賢吉さんを見て俳優を志すきっかけとなり、東京の玉川大学文学部芸術学科演劇専攻に入学致しました。そして、4年生の時に恩師・今尾哲也教授の薦めで、歴史ある劇団新國劇に入団。名優・辰巳柳太郎(たつみりゅうたろう)先生の書生となり、大学に通いながら夏休みには大阪の中座の新國劇公演「王将」で初舞台を踏みました。
しかし、入団3年目で劇団新國劇が倒産。その時、演技の勉強に習っていた常磐津の師匠、常磐津文字増(ときわずもじます)師匠の薦めで、国立劇場の第7期文楽研修生に応募。昭和57年(1982年)4月、九世竹本文字太夫(のちの七世竹本住太夫)師匠の弟子となり、竹本文字久太夫の名前を賜り、人形浄瑠璃文楽座の太夫として、同年4月に朝日座で初舞台を踏みました。

文楽初舞台の頃、大阪朝日座の二階楽屋で(当時27才)

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年3月13日 松阪市山室の本居宣長先生奥墓前にて

☆ タイムスリップ

この度の藤太夫改名への最も大きな出来事は、私が38歳の秋に実際に見た、「夢」にあります。
〜〜ある秋のうららかな日の午後、私が滝原にあった自宅の前を箒で掃き清めておりますと、そこへ黒塗りの駕籠乗り物が到着致します。引き戸が開けられ、履物が揃えられ、その草履を履きながら立ち上がりかけたその初老のお方を見るやいなや、たちまち私は持っていた箒を投げすて、「本居先生!」と叫んでその方の元へ走ってゆきます。すると、薄い茶色の着物に薄い鶯色の羽織を纏われたその初老の上品なお方が、それはそれはこの上ない笑みを浮かべ、右手を挙げながら、「やあ、與五郎さん!」〜
目覚めた時の心地良さといったら、言葉では言い尽くせないほど最高の夢でした。
この本居先生というのは、まさしく本居宣長先生の事。先生はこの上なく上品で知的な、この上なく美しい笑顔で、万人が誰しも慕うような、そんな素晴らしいオーラを発するお方で、あたかも私がその時代にタイムスリップした様でございました。

そして、10日後、まったく同じ夢を見たのです。翌月、春日大社の当時権禰宜の、岡本彰夫先生とお会いする機会があり、その席でこの夢の話をさせていただきましたところ、
「その夢は、ご先祖様があなたに、そのご先祖の事を調べなさい、と仰っているのです。伊勢神宮の神宮文庫へ行って調べてごらんなさい」とお教え下さいました。

1984年開場当時の国立文楽劇場二階楽屋口の着到板前にて(当時29才)


間もなく私は岡本先生の教えの通り伊勢市にある神宮文庫に向かい、膨大な資料と格闘しておりましたところ、これも偶然に研究者らしき老人からお声をかけていただけ、「北氏」と記された古文書を発見する事ができたのでございます。
その古文書を一目見て、「これは僕が昔書いたものです!」、と声をあげてしましました。
200年も前に書かれた物に対して可笑しな言い様ですが、私にとっては正に自分自身が以前に記した物だったのです。私は字が超ヘタクソですが、その書は非常に丁寧で上手な字で書かれていました。それでも私が昔に書いた物に間違いない、と実感したのです。

まったくおかしな、夢の様な出来事でしたがその後、松阪市で税理士事務所を営んでおります北家の当主宅を訪ね、入手した資料をお見せしたところ、当主も既に菩提寺の過去帳など色々と調査をしておられ詳細をご存知でした。それによると、私の夢に現れた與五郎は、1800年代の北家の当主で、前名を北與五郎(よごろう)といい、北藤太夫(とうだゆう)となり、のちに紀州徳川家の家老となり、北主計道善(きたかずえのかみみちよし)となった方で、まさしく本居宣長先生初老の頃は、北與五郎であった方であります。本居先生が参拝や研究のため滝原宮を訪れた時は、本陣である北家にご宿泊されたに違いないとも推測されます。
私の見た「夢」はまさしく現実に200年ほど以前に起こった事であり、200年前の私(北與五郎)に、現在の私(林洋)がタイムスリップしたという事でございます。タイムスリップとは、何て心地よい素晴らしい事でございましょう。実際に体験した私には、非常に良く理解できます。

☆ 藤太夫の縁

浜畑賢吉さん演ずる徳川吉宗公への憧れから志した俳優への道。吉宗公は紀州徳川家の出身です。北與五郎が紀州家初の将軍・吉宗公に憧れお慕いするのは、後の紀州家家老の北主計道善にとって当然の事でございます。
私は俳優となり、劇団倒産後に人形浄瑠璃文楽の太夫となる運命。今では、男性で太夫と名乗れる職業は数少ないですが、文楽には世襲制度がありませんので、私が文楽に導かれた理由を考えた時ひらめいた事が、「藤太夫」を今の世に出す! という事でございました。
200年前の北藤太夫さまからの現世の私へのミッション。「藤太夫という名を世に出せ!」 これが私が負った責務、私がこの世に生を受けた理由であると気付かせていただいたのでございます。

 

 

 

1990年の英国公演の時 ストラットフォードにあるシェイクスピアの生家の前で住太夫師匠と

 

☆ 師匠 竹本住太夫

住太夫師匠は私に十世竹本文字太夫を継がせたいお考えでございました。しかし私は、母方の先祖の藤太夫に改名したい由をお伝えしましたところ、お怒りを被りました。しかし亡くなられる半年ほど前にご自宅で、普段のお茶を飲みながらの会話の中で、「どうしても藤太夫に改名したいんか? 竹本藤太夫(ふじたゆう)という太夫が前に文楽から歌舞伎へ行ったから、読みは違ごうても竹本は使えんぞ。どうするんや」と言われました。
そこで私は「豊竹藤太夫」でお願いしますと申し上げましたら、「豊竹なら豊竹の師匠の許しを貰わなあかんぞ」と仰られました。
その後、住太夫師匠が亡くなられたあと、豊竹の御師匠のご快諾を賜わり、三味線人形の師匠方のお許しも快く頂戴致しまして、この度の改名となった次第でございます。
また、豊竹藤太夫につきましては、江戸時代に三代豊竹巴太夫の門人として豊竹藤太夫の名がありますが、読みが「とよたけふじたゆう」の可能性が高く詳細も不明のため、「初代」とさせて頂きます。

2014年4月 住太夫師匠引退公演の時  国立文楽劇場楽屋で

 

 

住太夫師匠は普段はお優しい方でしたが、いったん稽古となると、皆様ご存知のごとく、それはそれは厳しい師匠でございました。
ご自分の語りと寸分の違いも許されない稽古、そのなかで私は師匠そっくりに語ろうと30数年悪戦苦闘をして参りました。
ところが数年前、吉田玉男兄さんの襲名公演で熊谷陣屋の段を語らせていただけまして、その4月大阪公演の中頃の事でございます。私が床で語っている最中にふっと気付いたのです。師匠の物真似をしていてはいけない、私自身の語りをしなければと。
この公演の中日前あたりから、「十六年も一昔。ア夢であったなア、とほろりとこぼす涙の露。柊に置く初雪の日影に融ける風情なり。」この柊に置く初雪の、の辺りを床で語っておりますと、客席の下手の後方少し上の方から、何かの気配を感じるのです。それは毎日の事で、そのうちその気配から、「そこしっかり語れよ、苦労したんだからな」という声が聞こえてきたのです。その声が同じ柊のところで3日も続いた頃、、ようやく私はその声が、作者並木宗助先生の声だと気付いたのです。そして改めて調べ直したら、その熊谷陣屋の段が並木宗助先生の絶筆であったと知り、ゾット背筋に何かが走りました。文楽の三大名作を書かれたあの並木先生の絶筆を語らせていただき、私の身体を通して並木先生の書きたかった事を私が素直に語りお客様に伝えなさい、と並木先生から教えていただいた様な気が致しました。いつまでも師匠の物真似をしていてはいけない、これからは作者の書きたかった事を、私自身の魂の叫びとして語るのだと、閃いたのです。
こんな当たり前の事に、遅まきながら気づかせていただいたのでございます。

おかしな事に、私が師匠の物真似をやめようと心に誓ってからは、お客様からは、「最近、住太夫師匠によく似てきたね」などと言われます。
口真似ではなく素直に語る事が、今では住太夫師匠の私に伝えたかった事の様にも思われます。

 

 

☆ 妹背山婦女庭訓での久我之助、鱶七

妹背山女庭訓の妹山背山の段は、三段目の切でございます。つまり初段から最後まで通して、最も重要な場であります。
久我之助は、その三段目切のマクラ(語りだし)を語るという、一日の内でも最も大切な語りの一つを担わせていただく訳でございます。
久我之助の役は今回で三度目になりますが、その重圧に、責任の重大さに、毎回毎回、毎日毎日、緊張の連続でございます。
「かけり行く。古への神代の昔山跡の、国は都の始めにて、妹背の始め山々の、中を流るゝ吉野川。塵も芥も花の山、実に世に遊ぶ歌人の、言の葉草の捨て所。」
床本にしてこの紙一枚程の所に、染太夫の三段目のマクラらしく重々しく重厚な格式を出さなくてはならず、悪戦苦闘の毎日でございます。
とくに背山は染太夫風ですから、アゴを使った鋭角的な技なども随所に必要となります。
「頃は弥生の初めつかた・・」からは妹山の、パッと華やかに春太夫風の語りとなります。
妹山背山の段はこの左右対称の語りが対決し合うのが醍醐味でございます。

公演中は三業ともが妹山背山に別れ、それぞれ妙に敵味方意識が生まれるのも面白い事でございます。その火花が舞台で散ってこそ、迫力のある山の段の舞台となる様に思います。

鱶七上使の段は、あらすじ的には、おごった入鹿の御殿に鱶七(金輪五郎)がやって来る、ただそれだけの話ですから、ごくお気楽にお楽しみ下さいませ。官女の言ってる事など相当きわどいですヨ。けっして真面目にご覧いただく様な場面ではございません。江戸時代のお客様と同様に、気楽に文楽人形浄瑠璃をお楽しみいただければと存じます。

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ジョーラク桜花(おうか)の会

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上方落語のベテラン、月亭文都師匠がよく行かれる高麗橋桜花という和食のお店で、そこは私もよく伺いますが、これまでお互いに面識はありませんでした。
二人をよく知る桜花の店主の森田さんが、文都さんと私がコラボしたら面白いのではという事で、文楽や落語通の方々に私たちの芸談のコラボを聞いていただく会を主催していただいた訳でございます。
3月に第1回目を開催致しましたところ森田店主の予想通り、初めてにしては文都師匠と私のイキが超合いまして大好評で、すぐに第2回目が6月22日と決まりました。

お昼が眼目の月亭文都さんと私の、実演を交えながらの芸談対決や舞台裏話や楽屋話、質問コーナーまであり、会場が一丸となって芸道精進するという、今までにあった様で無かった非常に楽しい会でございます。
チケットは只今好評発売中でございます。夜の高麗橋桜花で夕食をしながらの懇談会の部は、すでに売り切れ直前でございます。

「第二回ジョーラク桜花」
日時:6月22日(土)15時30分開演(開場は14時30分)
場所:周(あまね)大阪市中央区平野町4-6-8 井上ビル3階
(レトロでお洒落なビルにつきエレベーターがありませんので予めご了承下さいませ)
会費:3000円(別途1ドリンクお願いします)
☆チケットのお問い合わせは下記の周(あまね)までお願い致します。
電話:090(4308)7368
メール amusie.nao@joy.ocn.ne.jp

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藤太夫と改名し、令和新時代となり、これからはジョーラク桜花のように新しい企画も色々と催させていただきますのでご期待ください。

末尾となりましたが、皆様には、今後ともご指導ご鞭撻ご後援の程を、旧に倍しまして宜しくお願い申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・令和元年五月 初代・豊竹藤太夫



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