竹本住大夫 脳梗塞を克服し舞台へ復帰
2013年4月23日更新
もう一度舞台に出たい、このままでやめてしまうのはいやや、そう思てリハビリについていく
平成25年1月3日。大阪日本橋、国立文楽劇場。その舞台に竹本住大夫は戻ってきた。
その時、88歳。万来の拍手に迎えられての復帰であった。
半年前の7月12日、住大夫は自宅にいて脳梗塞に見舞われ、病院に運ばれた。処置も早く軽度のため手術はせず、入院しながらリハビリを続けこの日を迎えたのである。
「住大夫!」という会場からの掛け声に感極まり、住大夫は床で語りながら、涙が頬を伝わるのを感じたという。
「そりゃあうれしかったです。胸が詰まりましたわ。初日は満員で、拍手がすごうて、住大夫!って声をかけてくれはって、お客さんの励ましでやらしてもろたもんでんな。お客さん、ファンというのはありがたいな!とつくづく思いましたね。入院中もファンの方やお馴染みの方がお寺や神社でご祈祷したお札を送ってくれはったり、山川さん(元NHKアナウンサー)なんかはしょっちゅう電話してくれはって、『住大夫さん、絶対になおるから!私もなおったから絶対なおる』と、励ましてくれはってね。家族は言うに及ばず弟子かていろいろ看病してくれて、よう尽くしてくれましたわ」。
励ましがあったからこそここまで回復したと言いながら住大夫は目を細めた。
振り返れば、住大夫が舞台を休演したのは、平成14年2月の東京公演に遡る。
「あの時は体調悪かったんですが、公演なので無理して東京へ移動したんです。白血球の数値が異常に上がっていて、すぐに入院でした。それでも5月の東京公演で復帰しまして、“桜丸切腹”をやらせてもらいました。このときも割れんばかりの拍手をもらいました。三味線を弾いてた錦糸くんが『おっ師匠はん、今日は”堅(かと)お”なりましたわ。あのお客さんの迫力で” 堅(かと)お”なりましたわ』、と言うてました。こんだけ待ってくれはったんやな、と感慨無量になりましたね。ほんまにお客さんってありがたいでんな」。
この正月公演で大きな拍手をもって迎えられた住大夫の役は“寿式三番叟”の翁である。しかし、復帰の舞台としては気力も肉体も精一杯であった。
「先生は『8ヶ月でここまで回復したら上出来や!』て言いはりますねん。でも、まだ口がよう動きまへん。口がこうなりますのや」と口を突き出し歪めた表情をした。「医師とリハビリの先生は、どれだけ回復するか疑問だったようです。歳が88ですさかいに。確かに完全に治るまでは遠いけど先生に下駄をあずけないきまへんな」。
倒れた時のこと、覚えてますか?
「ようしっかり覚えてますわ。朝、顔を洗おうて、歯ブラシもったまま、そこの洗面所で倒れました。おーい、おーいと娘に声をかけてね。まずは掛かり付けの病院の先生に電話したら、すぐ大きな病院に電話してくれて、救急車で行ったら、先生や看護師さんが待っててくれて、手術せんとすみましたけどね。その時『なんでわしこんな病気になったんかいな』と。体は丈夫だったからなおさら驚きましたわ。でも、倒れた時も、その後も、治ると思ってましたね。はじめの一週間は、24時間点滴で、あとの一週間は朝晩の点滴でした」。
その後、一般病棟に移り、リハビリが始まった。朝の10時からは体のリハビリ、3時からは言語、4時からもう一度体のリハビリを繰り返すという毎日が続いた。
「言語のリハビリでは、森鴎外や芥川龍之介の本を読まされてました。最近は野崎の本(床本)を持参して、発声しにくい、聞き取れにくい箇所をチェックしてもろうてまんねん。二遍(へん)読んで、医師は『ようわかる!』」といってくれはります。ところがね、ぼくにとっては不十分ですねん。一人で読んで後でテープで聞いてみたら、“さしすせそ”が聞きにくいんです。『久作、はっとこたえ久松お染…』、「『お染』っていうとこんな口しますわ。大夫がこんな口したらあきまへんね。口に力がはいってまんねん」、と観客の前では決して見せたことのない歪んだ表情で言葉を切り、まだまだ不安だと口にした。
「『いささかのことで家がつぶれて…』、この『いささか』」も言いにくい。ゆっくり言うてたらいいけど、浄瑠璃は、特に世話物はゆっくり言うてられしまへんわ。来週から三味線を入れて稽古をしまんねんけど。私は若い時分からいろんなことで怒られてきました。でも、口のさばきで怒られたことないですわ。死んだ越路兄さん(四世 竹本越路大夫)が、『君はええ口してるな~』、と口ばかり褒めてくれはりましたけど。それが今、こんな口して語るのが情けのうて、歯がゆいんですわ」。
「言語の先生の前で、二遍(へん)泣きました。しゃべれないで。文章読んでて、何でこれが言えまへんのやろ、机バーンと叩いて二遍(へん)泣きましたわ。一昨日病院に行ったとき、私は『よう忘れませんね』て先生に言うたら、先生も『私も忘れません。なんで?って思ってたらいけません、喋れれたこと感謝せないけません。なんでも感謝しながらぎょうさんの人と話しして喋るのがリハビリですから』と言われましてね。1月は、『舞台に出るのがいいリハビリ』やからて、公演中はリハビリはせず舞台に集中しました」。
目標があるからつらいリハビリに耐えられる
「先生は、『岸本さん(住大夫の本名)は目標が高いからそれだけ回復してきたんです。大丈夫ですよ』と言わはりました。たしかに、若い時からいろんなことで体を痛めてきました。巡業へ行ったり、舞台で怒られ、稽古で怒られ、辛い巡業を克復したさかい、この歳までやれるんでっせ。回復が早いのもそういったことがプラスになってますね。最初は手や腕がゆうこときかんし。いまだ箸が持たれしまへん。介護箸でなんとか食べてますけど。着物を着るのも、帯を結ぶのも、家族や弟子の手伝いがないとできまへん」。
唇の右端を触りながら、「ここがね、半分ね、歯医者で麻酔をかけているような感じで、ちょっと重たい。足も少し重いんですわ。それでも今は杖をつかんと歩いてます」。
文楽の柱となる義太夫節の祖である竹本義太夫らの供養塔と墓石修復にあたり、住大夫はその抜魂式に出席したことを言っているのだ。供養塔や墓石の劣化が激しく破損や倒壊の危機にさらされているのを憂慮した技芸員らが「先人の墓石が自分たちの代で壊れてしまっては申し訳ない」と、修復資金を集めていた。その式で、25分ほど立ってました、と、リハビリの成果を自ら感じている。竹本義太夫が竹本座を創立したのは江戸時代、1684年。栄枯盛衰を繰り返しながら文楽は今に伝えられてきた。最長老として責任を感じるのであろう。文楽を作り上げて後世に伝えてきた文楽の先達に対して住大夫は心の中で感謝の気持ちで祈っていたに違いない。
「今、リハビリの時間は40分でんねん。でも、私が行くといつも1時間。私はしつこくて、もう一遍(ぺん)、すんまへんもう一遍(ぺん)、と言うて、出来るまでやりますねん。在宅のリハビリの先生も、一時間以上にわたることもあり、『先生すんまへんな、何遍(べん)も時間を延長してな』」と謝ると、『岸本さんが一所懸命にやりはるからこっちもやりがいがあります。気兼ねせんと、遠慮せんといてください』と先生にも言われました。できるまでやるのは性格でんな」。
「入院してて、88歳の患者は最高齢でした。リハビリの記録では84歳が最高でした。私のリハビリは、60歳か70歳の人達がするリハビリだから、きついですわ。えらい病気になりましたわ。大夫の呼吸法がええ影響を与えたと先生は言います。根が丈夫やから、ここまでできたと思います。きっと長い修行、きつい旅回りで体を使(つこ)うてきたのが役に立っているのかもしれまへんな」。
生い立ち
竹本住大夫は、大正13(1924)年10月、大阪の北新地でこの世に生をうけた。もの心のつかぬうちから北新地を歩き回り、近所からは三味線の音や、浄瑠璃が聞こえていた。やがて、父である先代の住大夫にせがんで文楽の楽屋に出入りするようになり、天王寺区にある生国魂神社の中にある浄瑠璃神社での祭礼には父や文楽の諸先輩の方々に一緒に連れて行ってもらうなど、文楽への道の環境は整っていた。浪商から大阪専門学校(後の近畿大学)に入学し、さらに戦局の厳しくなる中、繰り上げで卒業し、戦地へと赴く。敗戦を中国で迎え、翌年昭和21年1月に日本へ戻った。
苦難の船出
その年の4月には、父の反対を押切り、豊竹古靭大夫、後の豊竹山城少掾に入門する。師匠が命名した名前は「豊竹古住大夫」。師匠の”豊竹”と”古”、父の”住大夫”を合わせたものだ。門下の兄弟子には竹本綱大夫(八世)がいた。ちょうどその頃、その綱大夫に入門したのが現在の竹本源大夫である。源大夫の父は、山城少掾の後年三味線を弾いていた鶴澤藤蔵で、祖父は竹本源大夫(七世)という文楽の家系だった。「彼は14歳、私は22歳。歳のハンデがありちょっとあせりましたね」、と住大夫はいう。
「戦争中に入門者がなかったんで、戦後、私は入門第一号です。それが、大学出の大夫さんて新聞に書かれて。楽屋では『ふん、大学出の大夫か』って言われ、今まで”ぼんぼん”や”欣ぼん”とか可愛がってくれてたのに。怖いところに来たって思いましたで。そんなこと親父には言いまへんでしたけどね」。
住大夫はその年の8月公演で、勧進帳の番卒で初舞台を踏んだ。翌年3月には、師匠の古靭大夫が、浄瑠璃の大夫に与えられる名誉ある掾号、山城少掾を授かり、5月には特別披露興行が開催された。そして、戦前から楽屋に来て見知っていた鶴澤藤蔵(当時、清二郎)の娘である光子と、この年に結婚式を挙げた。当代竹本源大夫の姉である。給金の低い文楽の世界である。金がない、家がない、若い、という中で、住大夫は苦難の船出をした。
文楽二派に分裂
「あの時代、駅のホームに立ったらイヤになりまんね。はあ、また鈍行で、夜行で行かんならん。特急や急行なんか乗してくれしまへん。寝台もないし。鈍行の夜行で仙台に朝着いて、すぐ公演でっしゃろ。きつい巡業が続いて、寝不足になるわ、今みたいに薬のええのんはないし、声はいたんでくるわ、酒屋へ行ってお酒買うてきて、そのお酒を手ぬぐいに湿めして、喉に巻いて、それが湿布代わり。越路兄さんも私も今の嶋大夫君もそんなことしてましたね。そんな厳しい中でぬけつくぐりつ声の遣い方を覚えていくんですわ。そのおかげでこんな体でも先日(1月公演)翁をやって、口は重たいけどまあなんとか務められる。若い時の辛い時期あったからこそと思います。苦労とは思いませなんだな。プロやったら当たり前ですわ。三和会のこと思たら今の時代は結構過ぎますわ」。
貧乏でも貧乏臭くなるな!
「昔、燕三兄さん(五世鶴澤燕三)とは近所同士でして、『貧乏に負けたらあきまへんで。貧乏に勝たなあきまへんな』って、ようお互い言いましてな、合言葉にしてましたな。貧乏に負けたら芸が貧乏臭くなる。お客様の前で芸をするのに、貧乏臭い芸やったらあきまへんで。というて見栄張ったらいけません。貧乏臭くてもいかんし、見栄張ってもいかんし、そこが難しいですわな。自分自身の思いようで、最後は素直にやらないかんと思うようになります。三和会の、あのきつい時代があったからこそと今でもこうしてやっていられると思うてます。しんどいことは多かったですが、映画や芝居への出演のお誘いを受け、出演したことは楽しい思い出です」。
苦難の中で光明を見つけながら芸を磨き生きてきた住大夫の顔を微笑みが満たした。
その時分、どこで稽古をされてたんですか?
「師匠や先輩方の家ですね。喜左衛門師匠の自宅にはよう押しかけました。その頃の家は多くが木の造り。いつも8時半頃から始めていました。一の谷(一の谷嫩軍記)の通しに『脇が浜宝引きの段』いうチャリ場(笑いを誘う面白い場)がありますねん。農民が鍬を担いで『夜明けが分からぬわいの』、と言うと、コケコッコーと鶏が鳴き、『あ、鶏が鳴いた。夜明けじゃい』。そこだけの稽古で30分怒られました。何度も繰り返すから、夜中に帰ってきて白河夜船の近所の人が『おい、やかましいわい。夜が明けたのわかってるわい!』。師匠に怒られ、近所の人にも怒られて。木造の防音装備もない時代でしたし、そりゃあやかましいでっせ。でも、習ろうてるこっちは必至でっせ。借家の人から、道を歩いている人まで丸聞こえですわ。きつい稽古でしたけど、プロやと思うさかいに」。
喉の奥から絞リ出すように「コケコッコー」と、声の出し方で変わる鶏の鳴き声を、住大夫は聞かせてくれた。
「稽古が終わってから『ありがとうございました』って言うてから、すぐ帰ったことないんです。稽古が済んでから芸の話やら昔の文楽の話を聴いたりして、越路兄さんが亡くなるまで稽古に行って、長くなっても勉強になりましたね。今も、弟子や若手と稽古を終えてから話ししてますわ。早う帰りたいのにという顔しててね(笑)。とにかく私は自分が得心するまで食らいついていきましたね。私は昔から覚えが悪うて不器用やさかい師匠たちには得心するまで稽古をしてもらいました」。
「今の簑助くんが『不器用なことないで』と若い時分に言うてくれましたけどね。でも私は不器用やと思う。三和会と因会、二つに分かれてしまい人が少なくなりまして。そのぶん若いのにいろんなものをやらせてもらいました。高い声は出ぇへんし、声は悪いし、節回しは下手やし、道行の静(しずか)や、お三輪(みわ)、小浪(こなみ)など三和会時分にやらされて、恥かきましたわ。そのおかげで今なんとか抜けつくぐりつやらせてもらえてるんですね。辛いことがあったから今がある。ほかのみんなもそう思ってます」。
「その簑助くんが文化功労者になったとき、簑助くんの楽屋に行きましてね。脳出血で倒れて、大変な思いで復帰した彼に、『君は子供の時分から文五郎師匠や、紋十郎師匠のそばにいて、子供なりにずいぶん気をつこうて、お父さん(桐竹紋太郎)が因会にいて、君は三和会にいて、精神的にも苦労してきて、三和会の巡業ばかりの日々で肉体的にもしんどくて、紋十郎師匠の政岡の左を持ってて、遣い方が悪くて怒られたやろ。でもな、そんな積み重ねがあって、文化功労者になってんで。そやさかい、僕も君も三和会で苦労して貧乏して勉強したからこそやねんで』、て言うたら簑助くん、泣いてましたわ。あの時代っていうのは、みなさん苦労されてね。その時分三和会でやっていた今の現役は私と、簑助くんと紋壽くんぐらいやな」。
三和会、因会、二派の統一
東京オリンピックの前年、昭和38(1963)年、松竹が赤字続きの文楽の経営から撤退することが決まった。4月には、国と大阪府、大阪市、NHKが集まり、関西財界の応援により、財団法人文楽協会が発足した。因会と三和会が一緒になり、再出発が決まった。しかし、公演は、大阪では松竹から朝日座を、東京では三越劇場を借りて開催していた。やがて、昭和41(1966)年には三宅坂に国立劇場が、昭和59(1984)年、大阪に国立文楽劇場が開場した。大阪は道頓堀に近い場所。竹本義太夫が道頓堀に竹本座を作ってから300年目という節目の歳に文楽専用の劇場が、それも文楽生誕の地である大阪に誕生したのである。
「いろんなことがありましたわ。でもそういったことを風化させてはいけないんですわ。文楽はそういう時代を経て、今でも生き残っている、伝えてきたという事実を、歴史というものをとらえながら伝えるべきだし、また若い子たちはぶつぶつ言いながらでもやっぱり何回も言わんとあかんのですわ。そうしないと途切れてしまう」。
平成24年は、大阪市長の文楽への補助金カット発言により文楽界が大きく揺れた。本年度は25%カットの回答。来年度は、大阪公演の有料入場者数の連動方式で、入場者90,000人以下なら“0円”、105,000人以上なら2,900万円という、減額のうえインセンティブ方式が採用された。上方で誕生した人形浄瑠璃文楽が、大阪市長の文化軽視により、存続危機は回避できないままである。将来を見据え、芸に精進せねばならぬ文楽技芸員の心中を察するに余りある。しかし、改革は運営だけではなく全ての点で進めなければならない。今こそ真の創意工夫が求められている。
文楽は長い年月をかけてその域に到達する
文楽の世界では、努力を積む長い修行が求められる。大夫は50歳を超えてようやく声が出来てくると言われている。人形遣いは足10年、左10年を経てようやく主遣いになる。三味線弾きも同様に、一人前になるのは50代、60代である。
文楽は、大夫、三味線、人形遣い、この三業で成り立つ。どれを欠いても文楽とはいえない。
三業のバランス
「やっぱり情を伝えていくのは大夫でっさかい。大夫がきちんと語れば三味線も弾きよいし、人形もいきいきしてくるんですわ。文楽は三業の総合芸術でっさかいな、大夫が悪かったら、三味線は弾きにくいわ、人形は遣いにくいわ、バラバラになってしまいます。大夫、三味線、人形と番付にもあるように、大夫が先に書いてますやろ。それだけ大夫の責任は重大です。稽古を繰り返していくしかないんです」。
浄瑠璃がわかりはじめたのは、いつごろですか?
「浄瑠璃ってええな~、よう出来てるな~って思いましたのは平成元年くらいからです。それまではどうしたら情が出るのか、しまいまで声が続くか、ここはこんな節回しをしてたらまずいな~、もっとなんとかせないかんな、そんなことばっかり思ってましたら情は出まへんわな。技術に頼るより体に覚えさす、稽古をするしかありまへん。僕が64、5でっか、その時分から浄瑠璃がちょっとわかってきましたね。浄瑠璃ってええもんやな、ようできてるな~ってね。今になって、先代の寛治師匠や喜左衛門師匠、弥七師匠らが言うてはったことがわかりましたね。遅いわ!気がつくのがな。越路兄さんや綱はん兄さん(八世綱大夫)から、こんなこと言われたな。こうやったなと思い出しては自分のテープを聞いて、こんなこと言うてたらあかんと、自分の欠点がわかるようになったのも、この頃でっせ。それまではガムシャラにやることばかり考えて、熱演だけではあきまへんさかいな」。
浄瑠璃、すべては基本から
「どれもそうですけど、100点満点はないさかい。芸を体にしみ込ませて、体から自然に出てくるようになると、お客さんも得心してくれはると思うんです。体にしみ込ませて、基本を覚えていけば、自然に出来るようになる。今は、四六時中、浄瑠璃を考えている若手は少ないでっせ。どんな仕事でもまず基本です。基本に忠実に素直にやる。これしか手がないと思うんです。自動車を運転するにしても、料理を作るにしても、すべての職業において基本が大事ですね。学校でも、基本がわかれば、応用問題ができる。基本がわからなんだら応用問題はでけしまへん。『義太夫節はようできてるもんで、演目によって文章が違うだけで、基本がわかってたら、知らん浄瑠璃でも出来る!』と私は言いますね」。
よう怒られましたで
「昭和25年くらいかな三越劇場で寺子屋をやりまして、私は、舞台からこんなして(鼻の前にグーを作り)意気揚々と降りてきたんです。そしたらうちの親父が楽屋の入口で、『上手ぶってやるな!』言うて、いきなりどつかれましたわ。ただ一言でんねんけど堪えましたわ」。
「ファンの人が私を『若師匠、若師匠』って言いまんね。文楽では若師匠はおまへん。東京の素人の人たちは若師匠って言いまして、親父は『何?若師匠? バカ師匠か・・・』ってね。下手な奴が上手ぶって演ってたら聞いてられんし、見てられまへん。かといって自信をもって舞台に臨まんとお客さんに失礼やし、自信を持ちすぎると天狗になるし、匙加減が大事でんな」。
「褒められて勉強し、けなされて勉強し、どっちに転んでも勉強せなあきまへん。なんぼマスコミで評判が良くても有頂天になったらあきまへん。お客さんも、特にファンの方は“悪い!”とは言わずに褒めはりますわ。それに乗って真(ま)に受けたらあきまへん」。
稽古は妥協したらあきまへん
「稽古で身につけた浄瑠璃は、これでいい、ということはありまへん。私は不器用やし節回しが下手やし。喜左衛門師匠が『お前は声が硬いさかい、声を回しに行ったらあかん、声を回しているように聴かせなはれ。節を丸(まる)う言うたら上手そうに聞こえるし』と。今でもなるべく節は丸(まる)う言うてますけど。私は間が悪いもんやから、人一倍間については苦労しましたね。いまだに間が悪いでっせ」。
稽古を師匠方につけてもらった後でも、住大夫は納得いかないと、「もう一編(ぺん)」を繰り返したという。自分が得心しないと気がすまないのである。
「彦山権現の通し狂言で、お園が酔うて帰ってきたところを、京都の弥七師匠のお宅で一週間くらい稽古してもらいました。最初は『けったいな浄瑠璃でんな』、って言われてましてね。一週間ほどしたら『ちょっとおもろうなってきましたな』と言われたときは『よ~し、もっと頑張らんと』と思いました。嬉しかったです。しょうもないと言われた浄瑠璃がね。そして、師匠が『もう稽古はよろし。明後日立て稽古やからこれでならしていきまひょ』とおっしゃる、わてが『お師匠さんね、明日もう一遍(ぺん)お願いします』て言うたら、『もうよろしいわ』、っておっしゃる。『もうよろしいいで。立て稽古でやりまひょ』、『いやそう言わずに明日もう一遍(ぺん)やっておくんなはれ』って食らいついたら『あんた好きでんな~』って言われました。それから『あんた好きでんな~』が楽屋内で流行りましてね」。
浄瑠璃は自然体で
「浄瑠璃は、泣かそう、と思ってやってたらあきまへん。お客さんには伝わらんのです。登場人物によっては、私も浄瑠璃を聞いてて、かわいそうやなと思いますねん。燕三兄さんも稽古してて、『かわいそうやな~』と言われます。でも、やる人間が可哀想と思ったらあきまへん。それを通り越していかんと。自分が泣いたら、お客さん泣いてくれまへん。お客さんに通じまへんわ。初めはそれがわかれしまへん。物語の中に入るのではなく、自然体でいかないといけまへん。初代の吉右衛門さん、杉村春子さんなんかは芝居せんと、芝居したはりましたな。これやないとあきまへん。浄瑠璃も、浄瑠璃を語ってまっせ!と手の内を見せたらあきまへん。自然に語っていくことで感じてもらうことが大事ですね。そうなるまで40年以上かかりまんな」。
気づいたきっかけはなんでしたか?
「それは、いつ、どこで、何がきっかけということもありませんでした。当時は燕三兄さんとようやってましたけど、先輩、師匠がたの芸が頭の中に浮かんできたりして、勝手に、自然に出てきましたね。こうやる、ああやると思わんでも舞台に出たら、お客さんのほうから力引き出してもらうことがあります」。
床本が体の中に入ってしまったわけですね?
「そのわりに本は暗記してまへん(笑)。お客さんが興味持って一所懸命聴いたり見たりしてくれはると、普段やれんことが、やれることもあり、不思議でんなぁ。文楽は考えようによっては自由な時間も多くあります。その自由時間をいかに過ごすか。ボケッっとして暮らすか、しょっちゅう芸のことを頭に入れて暮らすか、その違いも芸に出てくると思います。結局は、芸が好きやないとあきまへん。好きこそものの上手なれ、下手の横好きもありますけど、僕は若い者に『下手の横好きもええ、好きにならないかんで!』とよう言うんです。若い頃の玉男はんは、よう勉強したはりましたな」。
人形遣いの吉田玉男が、戦地で浄瑠璃の本を携行していた話や、上演するたびに本を読み返し新し発見を繰り返していた。曽根崎心中では、それまで女の人形には足がないのが普通であったが、天満屋の段で、床下に隠れていた徳兵衛がお初の足に触れて、心中を決意する場面では足がどうしても必要ということから、伝統という盾を跳ね除け、女の人形に初めて足をつけさせた。常に新しい解釈、アイデアを探求する人形遣いでもあった。
野澤喜左衛門師の教え
「私が新口村(傾城恋飛脚)の奥をやってまして、舞台稽古から聞いていてくれはって、喜左衛門師匠から「水準に達している」と言われました。嬉しかったでっせ。喜左衛門師匠は厳しい人でした。この人は三味線弾きでありながら、大夫の気持ちをようわかってはってね、事細かにいろいろなことを教えてくれはりました。喜左衛門師匠は、人を教えるのは特に上手でしたね。1年生は1年生、2年生は2年生なりの方法で教えてくれはりました。燕三兄さんと一緒に寺子屋の稽古をして貰いに行ったんです。寺子屋は、それまで古住大夫時分に何遍(べん)もやってまんね。でも、もう一遍(ぺん)稽古に行きました。初日はなんにも怒りもせんとすんなりですわ。この調子なら明日か明後日で終いでっせ、稽古行かんでもよろしおまっせ、と燕三兄さんと言うてましてん」。
「そしたらあくる日、こてんぱんにやられてね。一字一句。こてんぱんですわ。燕三兄さんは構えたままじっと黙ったままですわ。そしたら次の日は、燕三兄さんがこてんぱんにやれて、私は黙ったままで。そして、稽古が済んでお宅を出てから、世界に一つしかない浄瑠璃がこない幾通りもあるとは、と思いました。「ここまでやれるなら、もうちょっと上を教えてやろうか」、と喜左衛門師匠はそのつもりで教えてくれてはったんですね。こっちはそれがわからんさかいに、昨日はあない言われたのに、今日は全然ちがうがなと、燕三兄さんと言いました。一段一段、段々に上がっていくように、喜左衛門師匠は教せてくれはりました」。
いつ頃のことですか?
「そうですな~、文字大夫を襲名してからでっさかいに、昭和35年以降のころですかいな」。
”情”を語るにはどうすればよいですか?
「何もかも一から稽古するばかりじゃなし、いろんな人の舞台を見たり聞いたりすることです。今は、録音された音や、映像がありまんな。テープ聞いたらわかります。テープ聞いて、舞台に出て満足にやるのは誰もおまへんわ。テープにしたってビデオにしたって自分の力だけしか取れまへん。テープやビデオは悪いとこを直したり怒ってくれしまへんわ。その人の力だけしか取れまへん。情は出まへんわな。人の芸を見たり聴いたりして、この人は上手やな、なんであの人はこういう表現をするんやろな、疑問を持ったりして、良いのんも悪いのんも聞けばええんです。何もかも一から十まで教えてもらうもんでもない」。
住大夫は立ち上がり、夏祭浪花鑑の三婦内の床本を取り出した。
「例えば浄瑠璃の本で・・・、ここに朱が入ってますね。これは片仮名の「ウ」を略したもんです。これは声を浮かしなさいよ、という印です。「地」いうたら節ですわ。こういうことは先輩、師匠がた誰も教えてくれません。聴いて覚えるしかないんです。あの人、この時、こんな声の出し方をしてたな。あとで本を見て、その意味がわかるんです」。
「親には『書く手間で覚え』、と言われましたね。私は覚えが悪いから、メモしました。こんな朱は、勝手に覚えるんですわ。これは漢字の“中”とい字です。色でもない言葉でもない、音で表現する。人形の首(かしら)に合(お)ぉたような発声をせい、 それは地声ではいかん、声をこしらえてもいかん。ほななんや? 音(おん)や、 音(おん)というものは、肩に力を入れ、口に力を入れたら使えない。自然に出るものです」。
経験を積むしかありませんね?
「頭で考えていたらあかんのです。経験で自分に染み込ませていくしかないんです。音(おん)で語れる若い大夫は、いまはいまへんな。音(おん)がないから節もぎこちない。三味線の音(おと)に消されてしまいますね。そやから深呼吸して、息を出して、音(おと)と違うところから声を出す。調子外してんのと違います。音(おと)と違うところから、息も声も出すからスケールが大きくなるんです。こんだけの大きな字を書いておかんことには声も出ない、息も出ない。本の字が細かったら、おそらくやりにくくてしょうがない。浄瑠璃字のこれだけ太く、大きな字やさかい、息ひいて、引っ張り出してやれるんです」。
それを長い公演期間、演じるのですね?
「そうです。長期間だから、体力も必要でっせ。かといって体力温存してたら、手を抜いたとお客さんに思われます。そやから腹巻まいて砂袋を懐に入れて、足を爪立てて指先と膝と腰に力入れて、上半身の力抜いて、息で語るんです。例えば、腹切りの場面では、かえって力を抜いたらお客さんに聞こえしまへんわ。手負いは手負いで息遣いが大事です。手負いだからといって弱々しくやったらお客さんに通じまへん。お爺さん、お婆さんをやるから、弱そうに年寄りを意識して聞かそうと思ったら絶対あきまへん。お爺さんとお婆さんは、より以上に腰と下腹に力を入れます。息で、音(おん)で語るんです。沼津では平作が腹切って『なんまいだぶ』言うとき、弱々しく言うのはあきまへん。腹力を入れて息の力で言うようにすると聞こえます。出来るまで長い修行が必要でんな」。
いい浄瑠璃を聞く
「それと聞かなあきまへん。喜左衛門師匠が『おまえら可愛そうやな。ええ浄瑠璃を知らんさかいな。わしらのときは越路大夫(三世〈1685年-1924年〉)ら名人がたくさんいたな』と言うたはりました。私が入った時からでもだんだん層が薄くなってきました。それでも山城少掾、大隅大夫、先代住大夫、若大夫、綱大夫(八世)、その下に越路兄さんや津大夫兄さんがいたはりましたからね。芸のつながりがありましたが、それもなくなってきましたね」。
浄瑠璃を伝えていくためには。
「そんなに上手にやったらいかん、下手にやれ、下手にやれ、と言うんです。下手にやれ、というのは難しいでっせ。若い頃、下手にやれ!と言われて、まだ下手なのになんでそれ以上に下手にやんね、と思いました。素直に、ようわかるようにやれ、っちゅうことですわ。そしたら切場がたつ!主役がたつ!って言うんです。脇役が芝居をしすぎて、主役も芝居をしすぎたら、お客さんしんどいでっせ」。
「われわれかて、端場(はば)ばっかりやって、切(きり)やるときには切場らしくないんです。端場の延長みたいになってしまうんです。『これは切場や!端場(はば)と違う』って、また怒られるんです。今まで端場ばかりやって切場をやったことないからわからんのでっせ。端場には端場のやり方。切場には切場のやり方がありますね。二段目、三段目、四段目、みんなやり方があるんです。道行は道行で大勢出ますけど、『文楽さんは大勢いても、揃っててようわかります』って言われます。道行の声の遣い方がわかってるからです。個人、それぞれの声は違ってても声の出し方を心得ているから、何人出てても文章がようわかりまんね。道行ははんなり、つまり上品に明るくやる。通し狂言の中に道行があって、お客さんも気分転換する。この道行らしい声の遣い方は簡単なようで難しいでっせ」。
「若い時に『国姓爺合戦』の三段目、『獅子ヶ城の段』を勉強会をやりました。音(おん)の使い方が難しいんです。これはもうやれんわ、まな板の上の鯉や、舞台の上で落ち着いてやったらええと思い、盆がまわって表に出て、客席を見回し落ち着いてやったんです。そしたら寛治師匠が『文字さん、それでええ、落ち着いて、ようわかるで』と言われました。ええ、悪いと違います。長い浄瑠璃は、ここが良かった悪かったじゃなしに、マシやな、良かったな、悪かったな、は全体をみて評価するもの。一箇所二箇所良かったからてあきまへん。舞台に出たら落ち着いてやることが大切でんな。カチカチになってたら、誰だって緊張しまっせ。稽古を十分にやったら落ち着いてできます。稽古をいい加減にやってたら落ち着いてやられしまへん。稽古を繰り返していくしかないんです。理屈も大事ですが、理屈ばかりだと浄瑠璃は面白くおまへん。稽古をして体に染み込ませる。落ち着いて素直にやることで、結果が出てくると思います」。
名作の語り
「山科閑居を寛治師匠に弾いてもろうて朝日座のときにやったんですわ。小浪のくどきがありまんね。可愛らしゅうやらんといけまへんね。稽古で私は可愛らしゅうやってるつもりやったんです。声ばかりで小浪やってもあきまへんね。やっぱり音(おん)でんな。音で言うてて声を拵えんと、小浪らしく聞こません。戸無瀬は戸無瀬らしく聞こえる。九段目はその後ようやらせていただいて、やるたんびに越路兄さんのとこへ稽古にいきました。三遍目のときかな、錦糸くんと一緒に稽古を頼みに行ったんですわ。『え~?まだやりますか? もうええがな。舞台稽古で聞くさかいに、わざわざ来んでもええ』、って断られました。大曲ですわな、山科閑居。前半やって、本蔵(加古川本蔵)の出で、大夫替りですけど、そこまでいくとなんや奥までやりたくなるんですわ」。
「沼津(伊賀越道中双六 沼津の段)を大阪の文楽劇場で燕三兄さんとやったとき、越路兄さん引退したはったんですが聞きに来たはって、帰らはった後で、楽屋に北浜の地下鉄のホームの公衆電話から、『住さん、お客さんがな、もう感心してたで。シ~ンとしてな』って言うてくれはったんですわ。『お客さんが感心して、シ~ンとしてたのはええこっちゃ。精進しいや』。褒めようにもいろいろあってね。燕三兄さんにも伝えました」。
「合邦(摂州合邦辻)や沼津(伊賀越道中双六)、太功記(絵本太功記)なんか、切場は昔、一人でやってました。合邦は1時間半。一人でやるから、大曲の切場はおもしろいんです。真ん中で大夫が変わったらお客さんも気が抜けるし、人形遣いもやり難いと思いまっせ。公演は昔、3時から晩の10時ころまで一部制でやってました。松竹の時代、戦争中は公演時間が決まってました。その時間に終わらないけませんから。大夫が余ってくるから、一つのものを二人でやるようになった。戦争中から昼と夜の部に分かれました。それが今に続いてますね。本来なら一人で語るものです」。
教える、ということ
「褒めようもいろいろありますが、叱り方もいろいろありますね。どっちも愛情でっせ。稽古で一番怒るのは私とちがいまっか。最後は人間性でんな。それはもろに芸にでます。
「私が初めて弟子をもった時に、喜左衛門師匠とこへ相談にいきました。『おお、歳からいうたら弟子もってもええ、そやかて弟子もつのは自分の勉強やで』て言われました。確かにそうでんな! 人に教えるということは、ええ勉強です。自分がこんだけ浄瑠璃がわかっていたら、もっと自分の浄瑠璃が活かされるのにと思います。かえってジレンマに陥った時もありましたね」。
実際にお弟子さんをもって、いかがでしたか?
「弟子に、バカ!アホ!と言うて教えてますけど、悔しかったら覚え! 腹が立ったら覚え! 情けなくなったらそれも勉強して覚え!私はそうしてきたさかいに、今もうちの弟子たちにやかましくいうて、よその弟子も同じように教えてますけどね。今の人たちの傾向として、喰らい付きようが足りまへん」。
「私らは、子供の時分から落語や舞踊、歌舞伎、新派や文楽も、わけのわからんうちに見て、わけのわからんくせに泣いたり、笑うてましたな。いいもんを見たさかいにこの歳になっても頭に残ってますね。今はそういう環境もない。時代が変わりました。私ほど稽古したんはおまへんやろうな。もうほんまに稽古の量だけは負けまへんな。私はいろんな師匠方のお宅へ稽古に行きましたからね。やっぱり稽古、稽古ですね。最後はそれしかないですね。稽古すれば自然に身に付いていくと思います」。
人生の師、高田好胤管長
「同い年の高田好胤管長は平成10年に逝きはりまして、なんかつっかえ棒が取れてしまったようでね。文字大夫の時分に、『文字さん、あんたの収入とわしの収入と、どっちが多いやろな』と聞かれました。『そりゃ管長のほうが多まっせ』と言うたら、『坊主と芸人は金持ちになったらあかん!お客さんに金持ちになってもらい』と言いはりました。芸には素直さ、真っ正直な心が必要。芸に集中せないかん。だから芸人は金のことを考えたらあかん。芸人は芸に集中し、金勘定は誰かにやってもらお、と思います。これやったらなんぼもらえる、って、そんなことあきまへんわ。相場は人がつけてくれますさかいな。自分からつけるもんやおまへんわ」。
「若い時分に裕福になったら勉強しまへんな。ある程度生活ができるのやったら勉強せな。ぼくらは、家は火の車やし、稽古はせなならんし、貧乏の中で生きてきたから、稽古には身が入りました。辛い修行を積極的にしようという子が少なくなり、ちょっときつく躾を厳しく言うただけでやめてしまいますわ。社会教育、学校教育、家庭の教育が悪いのか、ようわかりまへんけど、確実に時代が変わりましたな。そりゃ体罰はいけまへんけど、厳しさは必要でんな。またそこに愛情や優しさがありまへんとな。私は野球が好きで、高校野球をみてはよく泣きまんね。勝ったら勝ったで謙虚さがあるし、甲子園に出るまでどんだけ苦労し努力したか。野球でも素直さが大事ですね。芸も素直さが大事ですね。あれはクラブ活動やけど、技芸員にはお前らプロや、もっとプロらしゅう勉強せよ、努力せ!って言いまんねん」。
次は4月の公演は野崎ですね?
「4月は野崎(新板歌祭文 野崎村の段)でんな。私は後半だけです。1月は三番叟の翁でしたから、言葉がなく節ばかり。三味線弾いてもろたら、す~っと言えますねん。三味線の地(じ)のところはかろうじて言えまんねんけど、言葉になってくると言いにくいところがあります。4月の野崎を録らしてくれとNHKの依頼がありました。さすがに、『ちょっと待ってくれ、私は今、勉強の最中で、舞台稽古と初日を聞いてほしい。そこで聞いて、これならおかしないわと思ったら、録ってもろてもええし、無理やと思ったらやめてくれ』と言いました」。
「やりたい曲はぎょうさんありまんねんけどな、考えなければなりまへんな。5月の東京は三番叟。行くつもりにしてます。ただ、ふつうの生活でも体がまわらん、着物は着せてもろうてる、風呂も不自由、20日間ホテル住まいが心配なのです。先月、芸術院の会合がありまして、娘に付き添ってもらい1年ぶりに新幹線に乗りました。車内のトイレも一人で行かれたし、少しは自信はつきましたね。会合では10分ほど喋ったんですけど、『ようわかりまっせ!』ってみなさんから言われました。お世辞もあるでしょうけど。嬉しかったですね」。
引き際
「引き際というのは難しいでんな。私は、『まだやってんのか!』と思われないようにとは考えてます。そやから今年が勝負かいな、と思います。まずは野崎やってその結果いかんによっては考えんならんなと思ってます。言葉がはっきり言えなあきまへんわな。どの程度やれるか、不安は不安でんね。そやから毎日本読みして、テープに吹き込んで、聞いてみたりしてます。リハビリの先生も、『そういえば“さしすせそ”が弱いですね』、と言われました。今まで苦にせんとやれてたところがやれんとなると考えまっせ。うちの親父が野崎をラジオで録音したもんを聞いて、『お光やお染がえらい婆になったなぁ』言うて、『もうこれはあかん、やめよう』、と引退の決心をしたんですわ。文楽で引退披露ができたら幸せです」。
「引き際は大切ですね。引き際は自分で!と思います」。
「今はこんな大阪弁しかよう喋りまへんのになぁ。みんな私を取材した人が文章を書くのに困ってね。無理に大阪弁のニュアンスを出そうとして苦労しはります。大阪弁でしゃべって文章にするのは難しいですな。難しいけど、でもそれが味があるんですわ。東京へ行ってもどこへ行っても、外国へ行っても文楽は大阪弁やさかいね。住さんの大阪弁は柔らかで分かりよいとか言うてくれはりますけど。ちょっとも肩これへん、っていうてね」。
4月公演、期待しております!
「ご期待にそえる様に頑張ります」。
平成25年3月、春まだ浅い日の午後、竹本住大夫師を自宅に訪ねた。師は、3時間に及ぶインタビューに疲れを見せず応じてくれた。いや、午前中のリハビリを済ませていたので疲れていたかもしれない。しかし、そういう素振りをまったく見せないのがプロだという師の言葉を思いだし、深々と頭を下げた。脳梗塞の後遺症による発声の難にもかかわらず話をしていただいた。
これは、復帰を目指す心の叫びであり、師の今のすべてである。師の文楽への愛情が、床本の積み重なる部屋で、溢れるばかりに満ちていた。
感謝(平成25年4月)
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竹本 住大夫
1924(大正13)年、10月28日、大阪生まれ。本名、岸本欣一。
1946(昭和21)年、2代目豊竹古靱大夫(のちの豊竹山城少掾)に入門。
1960(昭和35)年、9代目竹本文字大夫を襲名。
1985(昭和60)年、七世竹本住大夫を襲名、モービル音楽賞(邦楽部門)受賞。
1989(平成元)年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
1998(平成10)年、日本芸術院賞 及恩賜賞。
2002(平成14)年、日本芸術院会員。
2004(平成16)年、毎日芸術賞受賞。
2005(平成17)年、文化功労者に。
2005(平成17)年、NHK放送文化賞。
2008(平成20)年、朝日賞、フランス芸術文化勲章コマンドゥール叙勲。
その他受賞多数。
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