吉田 一輔(文楽人形遣い)

2018年12月16日更新

 

吉田一輔さん、文楽人形遣いとして祖父、父、子息と四代にわたり文楽の世界に身を置く。
“足遣い十年、左遣い十五年”とも言われる厳しい人形浄瑠璃文楽に入門し35年。
吉田一輔さんにお話を伺いました。




当然⽗が家でお稽古をしていますので、⽣まれた時から浄瑠璃を聞いていました。 子どものころは、扇をおもちゃにしていた事もありました。道頓堀の朝⽇座にも⺟親に連れられ 2 階席から観ていました。売店のモナカアイスを⾷すのが楽しみでしたね。
幼少期から幼稚園や、⼩学校、中学校の先⽣⽅、ご近所さんから、「将来は⼈形遣いになる んやろ?」「三代⽬」等と当時何も考えていなかった私に呪⽂の様に語り掛けて頂きましたが 何のことやら気にもしていませんでした。
しかし私が中学1年⽣になった時、先代の⽟男師匠のお孫さん(同い年)が⼊⾨したとい う事を両親が、話しているのを⼩⽿に挟み、その時初めて⼈形遣いになる事を意識しましたね。

中学2年の時、研究⽣として⽗桐⽵⼀暢に⼊⾨し、大阪公演時に道頓堀にありました朝日座へ通いましたが、学校を終えてからですので、出来る事はほとんどありませんでした。
当時の同じ楽屋には祖⽗の⻲松、⼀暢と簑助師匠、簑太郎(現勘⼗郎)兄さん他 六畳の部屋に8⼈も⼊っていましたので、随分可愛がって頂きました。 中でも簑⼆郎兄さんが細々と教えて下さいました。 楽屋での習わし、基本的な⾜の遣い⽅など⼤変ありがたかったです。1 年後には今の国⽴⽂楽劇場が出来ていましたので真新しい劇場になり先輩⽅が⼤変喜んでいたのをよく覚えています 中学校を卒業後、正式に⼈形遣いの修⾏が始まりました。 最初の頃は動きの少ない役の⾜を遣う事からやらせて頂くのですが、⻑いものになると1時 間くらいじっとしているんです。
左⾜に体重をかけたまま中腰でいますので、⾃分の⾜がブルブル震えて、耐えきれずにいつ倒れるか、って思いました。先輩達は平気な顔で遣っているので、先⾏不安になりました。まあ、すぐに慣れるんですけどね。徐々に動きのある⾜、主役の⾜を遣わせてもらえる様になって来ると、怖さと同時に芝居をする楽しさを実感する様になり、よりやり甲斐を感じました。

―若いころは細々とした仕事も多く、技術的な修業も含め、大変だったでしょうね。足遣いから左を遣う立場になり、心構えはどのように違うものですか―

初めて顔を出して⼈形を遣った時は、嬉しいのと不安と期待で緊張感が凄かったですね、袖 で⼈形を持って出を待っている時に 「あっ!頭⼱をかぶるの忘れた」とドキッとしました。 辞めようと思った事もありますよ。⼊ったタイミングが悪かったのか役がほとんど付かな かったんですね。それはとにかく経験を重ねたい時ですから焦りました。 しかしその悔しさがあったからこそ、有り難みも感じる事も出来たので今も続いているの だと思います。

⾜は役柄に応じた遣い⽅をするのですが、主遣いの⾜取りに合わせる事が⼤きな仕事です。
左を遣うというのはもっと意識を上げないと駄⽬なんです。気持ち的にはいつでもその役を遣えるというぐらいですかね。主遣いが遣う右⼿と同じ軌道を描かないと主遣いの演じたい役柄を邪魔する事になりますので細⼼の注意と、技量が求められるのですね。
これが難しいのですが、分かっている左遣いと分からない左遣いとでは技術の差が⼤きく 変わると思っています。ただ⾃分の思いだけで遣っているだけでは駄⽬という事です。
⾜遣いは体⼒的に、左遣いは精神的に⼤変な役割です。どちらもこだわりを持ってやらない と主遣いをする時にも⼤変な事になります。私達の頃は主役級の⾜と、動きの少ない役の左 を同時進⾏で修業していましたので、暇な時間もなく舞台にずっと関わり、いい修業が出来ました。

― 一輔さんが足から左へと修業しているとき転機が訪れる。父であり師匠でもある桐⽵⼀暢師匠が亡くなられた。そして、吉田簑助師匠に弟子入りし、桐竹一輔から吉田一輔へ ―

⼀暢の元で何も分からない状態から⾜遣いを18年、同時に左遣いの勉強も7年位させ て頂きました。基本に忠実にがモットーですからとにかく必死に覚えました。そんな中、平成16年、志半ばで⽗が他界しました。私⾃⾝も「さあこれから⾃分らしさみたいなものを探さないと」と思っていた頃でしたので、⼤変ショックを受けました。
しかしながら、幸いなことに簑助師匠にお願いしたところ、弟⼦として快く受け⼊れて下さ いました。いろいろとお気遣いを頂きました。当時「桐⽵⼀輔」と名乗っていた事、頭⼱の形も今 の様な先の三⾓の物ではなく、四⾓い頭⼱を最後まで残していましたので、 「名前と頭⼱は家の物だから変えずに残せば良い」と仰って下さいましたが、⼼機⼀転⼀から修⾏するつもりでお願いしましたので、名前、頭巾とも変えさせて貰いました。
簑助師匠の印象は全弟⼦にチャンスは与えるが芸には厳しい⽅だと思っております。なんとか⾷らいついていき、いつか来るであろうチャンスは無駄にしないという気持ちでスタートを切りました。
2年経った頃本朝廿四孝の⼗種⾹の段の⼋重垣姫の左を「今⽇から来い」と⾔って頂きました。重要な左を遣う事は初めてだったので、それはそれは緊張しました。その後もずっと左遣いとしていろんな役を勉強させて頂き感じた事は、技術的な事は勿論、基本をうまく応⽤して ⾃然な流れの中で動く事を学ばせてもらいました。自分の師匠は代わりましたが、自分が⼾惑っている間などはありませんでした。

― お二人の師匠のもとで修業され、今でも忠実に守っていることはありますか―

基本からの応⽤だと思います。焦らず基本をきっちり叩き込んでから⾃分らしさを作って いく事が⼤事かと思います。これは本当に難しい事で、私⾃⾝まだまだその領域に⽚⾜も踏み⼊れていませんが、⼈形と⼀体化する、したいなと思いながら遣っています。
それは師匠の左を遣っている時に⾔って頂きました。そこを⽬指して努⼒しています。

― さて、一輔さんといえば、「志の輔師匠との“落語と⽂楽のコラボ”や、“三⾕⽂楽”を思い浮かべるかたも多いのではないでしょうか ―

志の輔らくごへの出演は平成17年より、数年掛けて下北沢の本多劇場を⽪切りに横浜にぎわい座、梅⽥芸術劇場シアタードラマシティ、名古屋、富⼭等、普段⽂楽公演を⾏わない様な会場で出来たことも意義のある事なのですが、内容も⾮常に⾯⽩かったです。
落語 「猫の忠信」の途中、猫の独⽩から⽂楽の世界に⼊って⾏きます。勿論、猫のかしらも⼿も⾜も特注です。初めて演出から配役、メンバー構成、振付、事務作業まで関わり良い経験になったと思います。

三⾕⽂楽の初演は平成24年渋⾕パルコ劇場でした。
三⾕幸喜さんとの出会いは平成22年です。共通の知り合いからの紹介でお互いやりたい事 が⼀致した事が始まりです。三⾕さんの作、演出で⽂楽が出来るなんて夢の様な話です。三 ⾕さんからも「爆笑⽂楽を作りましょう」と⾔って頂きました。 2年間じっくり掛けて出来上がった作品が、「曽根崎⼼中」をもじった「其礼成⼼中」。
実際に起こった⼼中事件を元に近松⾨左衛⾨が描いた曽根崎⼼中が⼤ヒットし、⼼中が流 ⾏してしまいます。そこに⽬をつけた三⾕さん。天神の森を⼼中のメッカにしてしまいます。 この天神の森を舞台に笑いあり、涙ありの⼈情劇になっています。カタカナ⾔葉や現代語をふんだんに使ってどなたにも楽しめる作品になりました。翌年にはパルコ劇場で再演され、京都劇場、森ノ宮ピロティホール、去年は静岡グランシッ プ、博多座と各地からの要望に応え再演され続け合計72ステージになりました。
もし機会があればご覧頂ければと思います。三⾕さんからは「伝統芸能の底⼒を⾒せてもらった」と⽂楽への最⼤の敬意、最⾼の賛辞を頂きました。

― 文楽の底辺を広げるうえで新作も必要でしょうけど、そこには古典の本質が必要なんでしょうね ―

新作は、挑戦しようと思って出来る様な簡単な事ではないと思います。制作⺟体を個⼈的に持っている訳ではないですからね。とにかくご縁だと思っています。ご縁があれば積極的に可能な限りチャレンジはしてみたいです。ただ⽂楽は⼀⼈では出来ませんので、賛同し協⼒してくれる仲間が必要です。それぞれが⼯夫して役を作り上げていく、意⾒を出し合い稽古を積み重ね芝居を作り上げる。そしてお客様に観てもらえる物にする、終わったあと喜びを分かち合える。古典芸能の世界にいると気付かない事が沢⼭ある事に気付きました。古典の芝居も初演時には作者もいてみんなで意⾒を出し合って作り上げた物が今こうして 繰り返し上演されている事の重みを改めて感じました。下⼿な伝⾔ゲームにならない様に、継承し続けないとと、改めて古典芸能に関わっている重みを感じています。

― ご⼦息(⽂楽⼈形遣い吉⽥簑悠)が簑助師匠に弟子入りされ、親として、兄弟子として感じている -

簑悠が師匠の元に⼊⾨し早五年、師匠の⾜と私の⾜の他、⼀⽇中舞台に張り付いて頑張って います。どんどん経験を積んで⾝体に染み込ませておいて欲しいですね。幸い私もいろんなお役をさせて頂けるようになって来ていますのでどんどん⾜を遣わせて⼀緒に成⻑出来たらと思っています。今のところ探究⼼、向上⼼を持ってやっている様なので、頑張っていると思います。親⼦ですが、弟⼦ではなく兄弟⼦ですので、同世代の⼦達が多くて⼤変な世代ですが、焦らず腐らず頑張って欲しいです。基本に忠実で向上⼼を持ってやる気があれば後々⾃ずと結果はついて来ると思います。

四代目ではありますが、文楽には世襲制がありませんので、私は正直そんなに“四代”を重くは受け⽌めていません。他の⽅達と同じスタートですし、なにか優遇されるわけでもありませんから。しかしながらDNAを受け継いでおりますので、代々どんどん良くならなくてはいけないという思いで、⽇々成⻑を努⼒をと⾼い意識を持って励まないといけないという事は重く受け⽌めています。

― 人形遣いをしていて、良かったなと思うことは―

⼈形遣いを続けていて良かったと思えること。甲⼦園球場でプロ野球の始球式をさせてもらった事ですかね(笑) 元々野球が好きで、⼈形遣いの野球チーム「⽂楽パペッツ」でもエースで4番…?です。簑悠も⼩学校から⾼校まで野球をしていました。次男も⾼校球児として今甲⼦園を⽬指して頑張っています。秋季⼤会は近畿ベスト8 ですのでもしかしたら春の選抜⼤会に選出されるかどうか… 。私は⼈形遣いを続けていたおかげで⼀⾜先に甲⼦園のマウンドに⽴てました。


― さて、2019年2⽉⾚坂⽂楽20回記念は「⽣写朝顔話」朝顔を遣って頂きます。⼊⾨されて35年、朝顔への思いを ―

⼊⾨1年後の6⽉⼤阪公演で⽗が今の私ぐらい⽴場の時に現在の12⽉の本公演の様な中堅 が中⼼で出演する公演で、通しで朝顔話が出た時に朝顔を遣っているのですが学校に通っていましたし数回しか観ていませんので正直ほとんど覚えていません。やはり朝顔といえ ば簑助師匠のイメージです。憧れの役なのですが師匠の左を何度も遣わせて頂き⼤変勉強 させて頂きました。主遣いでは平成20年には若⼿会で今回と同じ宿屋〜⼤井川をさせて頂きましたが、主役級の役を演じるのは初めてでしたのでそれはそれは良くも悪くも良い経験になっています。その後も師匠が朝顔をやられる時には左につかせて頂くのですが、宇治川蛍狩りと明⽯船別れは私が主遣いさせて頂く様に配役されています。先発投⼿の様な想いで良い形でなんとか師匠が遣う宿屋、⼤井川に繋げたいとプレッシャーに感じながらも勤めさせてさせてもらってます。いつか通しで遣う⽇が来ることを楽しみに、今回の公演も含めて修業に励みたいと思っています。

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吉⽥⼀輔(よしだ いちすけ)
1969年⼤阪に⽣まれる。祖⽗は桐⽵⻲松、⽗は桐⽵⼀暢。 1983年⽗である桐⽵⼀暢に⼊⾨、桐⽵⼀輔と名のる。 1985年国⽴⽂楽劇場で初舞台。
2004年、三代吉⽥簑助⾨下となり、吉⽥姓を名のる。
【受賞歴】 2009年 国⽴劇場⽂楽賞⽂楽奨励賞 2010年咲くやこの花賞 ⼤阪⽂化祭賞奨励賞、 2012年 ⼗三夜会賞など受賞 2013年 ⼤阪⽂化祭グランプリ など

使用写真)2018年2月 赤坂文楽#18「曾根崎心中」より
Photo HAJIME WATANABE



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