「伊賀越道中双六」の魅力 「岡崎」を中心に⑫

2013年12月5日更新

 

2013年9月28日 犬丸治FBより転載。

国立小劇場・文楽「伊賀越道中双六」第八「岡崎」。政右衛門が癪に苦しむお谷を送り出したのと入れ替わりに、庄屋に呼ばれていた山田幸兵衛が帰ってきます。
前にもお話しましたが、豊竹山城少掾(写真)は、「岡崎」を①政右衛門の出から、幸兵衛が庄屋に向かうまで②煙草切り・お谷のくだり・幸兵衛が帰ってくるまで③それ以降、段切までの三段階に分けると、①が一番難しく、③からは「割合い楽に」語れると言っています。
私など、巳之助殺しがある③が一番シンドイと思うのですが、ここまで来ると、終段まで一気呵成に引き締めて語れば良いということでしょう。

帰ってきた幸兵衛に政右衛門が「助太刀を承諾したのに、なぜ股五郎殿の居場所を教えてくれぬ」と難じていると、幸兵衛の女房が、さきほど内に引き取った赤子の守りの書付に「和州郡山唐木政右衛門子。巳之助」とあると告げます。
政右衛門としては万事休すですが、愛弟子庄太郎こそその政右衛門だと知らぬ幸兵衛は、「誠に誠に、シヤよいものが手に入つたぞ。敵の倅を人質に取つて置けば、この方に六分の強み。敵に八分の弱みあり。股五郎殿の運の強さ。その餓鬼随分大事にかけ、乳母を取つて育つるが計略の奥の手」と有頂天です。
巳之助を人質にとって、政右衛門・志津馬の優位に立とうというわけです。

これに政右衛門はずっと寄って赤子を引き寄せ、小柄で喉笛を貫き殺してしまいます。
「コリヤ庄太郎。大事の人質ナヽヽヽヽなぜ殺した」と驚き怒る幸兵衛に、
政右衛門は「ム、ハヽヽヽヽヽ。この倅を留め置き、敵の鉾先を挫こうと思召す先生の御思案、お年の加減か、こりやちと撚が戻りましたな。
武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑い草。
少分ながら股五郎殿のお力になるこの庄太郎、人質を便りには仕らぬ。
目指す相手、政右衛門とやらいう奴。その片割れのこの小倅、血祭に刺し殺したが頼まれた拙者が金打」と、我が子である死骸を庭へ投げ捨てます。

観ていて、恐ろしく残酷です。いくら巳之助が人質になると和田陣営が不利になるばかりか、いずれ自分の正体が露顕し、敵に行き着けないとしても、政右衛門は幸兵衛に信頼されていますから、隙を見て密かに巳之助を奪還するなど、ほかに手段もあったはずです。
なぜそうしなかったのか。
幼いころ孤児になった庄太郎こと政右衛門にとって、幸兵衛は武術の手ほどきをしてくれた親同然の存在。政右衛門が出奔したあとも「この庄太郎はいかがなりしと、雨につけ風につけ、思い出さぬこともなく」という慈愛をかけていたのです。
政右衛門にはこの老人の期待を裏切ったこと、しかもいまや奇しくも敵味方になり、正体を偽っていることに引け目がありました。

ところが、人生の師匠とも言える幸兵衛が、非道な股五郎に組するのは義理とはいえ、いままさに巳之助人質作戦という卑劣な行動に出て道を誤ろうとしている。師よ、それでよいのか。
「ム、ハヽヽヽヽヽ」という暗い笑いと、「先生の御思案、お年の加減か、こりやちと撚が戻りましたな。武士と武士との晴れ業に人質取つて勝負する卑怯者と、後々まで人の嘲り笑い草。少分ながら股五郎殿のお力になるこの庄太郎、人質を便りには仕らぬ」
は、親子にもまさる関係の幸兵衛への、弟子としての政右衛門の必死の諫言であり、そのために咄嗟に最愛の我が子である己之助を差し出すことで、師を目覚めさせようとしたのです。
どちらにせよ、政右衛門は幸兵衛たちに組みすることは出来ません。股五郎の居場所を聞き出した瞬間、彼は庄太郎から現在の政右衛門に戻って敵対し、師に背かねばなりません。
巳之助殺しは、その時に備えて、自らの退路も絶って、敵討に臨む自分の決意を暗に披瀝したのです。

現代人の親子関係やヒューマニズムでは納得しがたいでしょうが、当時の「人情」をそのまま伝えるのが伝統芸能で、それに異を唱えるのはさかしらではないでしょうか。
政右衛門の行動は、仇討を支える「義」を、身を切ってまで実現しようとする、近松半二の理想主義だと思います。
それが明確になるのが、続く山田幸兵衛の述懐です。


なまえ
犬丸 治   いぬまる・おさむ
演劇評論家
 1959年東京生れ。慶應義塾経済学部卒。
「テアトロ」「読売新聞」に歌舞伎評掲載。歌舞伎学会運営委員。著書「市川海老蔵」「歌舞伎と天皇 『菅原伝授手習鑑』精読」(いずれも岩波現代文庫)ほか。

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