「伊賀越道中双六」の魅力 「岡崎」を中心に⑤

2013年11月18日更新

 

2013年9月21日 犬丸治FBより転載。

国立小劇場・文楽「伊賀越道中双六」第八「岡崎」。
「双六」=「旅」=「出逢い」とするなら、ここで和田志津馬とお袖の「出逢い」があります。
志津馬からすれば、馴染みの松葉屋瀬川ことお米と父平作の苦衷(「沼津」)で傷が治ったのですが、「大序」でもお話した通り、ある意味「無責任男」です。
ここでも、藤川関で澤井の家来助平からせしめた手紙で、どうやら宛先「山田幸兵衛」が敵の手づるらしいので、それを探ろうということが分かっているとはいうものの、お袖とのいちゃつきも、どこか「またかよ…」というところがあります。

お袖はお袖で、頑固な父幸兵衛の留守を狙って逢瀬を楽しみたい、と思っているのですが、ここで昔気質の老母が出て来て制します。
「今こそ茶店の娘。去年までは鎌倉のお屋敷方へ腰元奉公、御主人様のお差図で、さる武家方へ末々は縁につきょうと堅い約束。その許嫁の夫を嫌い、無理暇貰うて親の内へ戻つて、間ものう、みだらがあつては、以前のお主ばかりじやない、顔は知らねど約束した婿殿へ、どの面さげて言訳しょう」。
お袖には既に許婚がいたわけです。
これでは、志津馬は二の矢がつげません。
これも「沼津」と比較すれば、父妹に金をやりたい口実に十兵衛が手段でお米にじゃらつくと、夫のいるお米にピシャリとはねつけられるのと対照をなしています。

ここで大夫・三味線がかわって「次」となり、老母が奥へ入ったあと。
お袖・志津馬と二人残り、お袖のクドキになります。「岡崎」で、ここと、終段の出家したお袖が唯一色気のあるところです。
そうこうしているうちに、澤井方の蛇の目の眼八がやってきます。
すれ違いに志津馬は奥に潜みますが、眼八は相合傘の怪しい連中を見たとお袖に因縁をつけ、奥の一間に踏み入ります。
その腕をねじ上げて出て来たのが、この家の主山田幸兵衛で、眼八はほうほうのていで逃げ去ります。
この幸兵衛は、後に見るようにハラに一物、一癖ある老人で、「鬼一」という首(かしら)を使います。大判事・加古川本蔵・弥陀六・幸崎伊賀守といった役がそうで、したがって歌舞伎に置き換えてこの役に嵌る役者、が類推されてくるわけです。

あらためて幸兵衛と対した志津馬は、例の助平の手紙を使って
「ムヽ、スリヤ貴殿が幸兵衛殿とな。拙者は鎌倉の昵近武士、沢井城五郎殿に縁ある者、委細はこれに」と取り入ります。
実は、お袖は一時鎌倉の澤井城五郎方に奉公し、その関係で、従兄弟の股五郎とお袖の婚約が決まっていたのです。手紙は、城五郎から改めて助力を頼む手紙でした。
ここで志津馬、調子に乗ったかよせばいいのに、
「自分がその澤井股五郎」と名乗ってしまいます。

「スリヤアノ御自分が股五郎殿、か」。
幸兵衛のこの「股五郎殿、か」は大事です。
当時面識なしの婚約など当たり前でしたが、実は幸兵衛は、既に股五郎の人相を聴き知っているので、志津馬は怪しいと睨んでいるのです。ここから、半二得意の「だましあいゲーム」が始まっているのです。
が、そこはおくびにも出さず、改めて老母・お袖との対面となり、では祝言の用意と皆々奥に入ります。
「親の手前を恥じらいて、赤らむ顔の色直し、とけて見せても下心、許さぬ志津馬が肌刀、胸に寝刃を相の間の」、と、志津馬は上手障子をキッと見込んで、いよいよ「切」へと入って行きます。


なまえ
犬丸 治   いぬまる・おさむ
演劇評論家
 1959年東京生れ。慶應義塾経済学部卒。
「テアトロ」「読売新聞」に歌舞伎評掲載。歌舞伎学会運営委員。著書「市川海老蔵」「歌舞伎と天皇 『菅原伝授手習鑑』精読」(いずれも岩波現代文庫)ほか。

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