原作と改作の間

2013年5月21日更新

 

今月の文楽は昼「曽根崎心中」夜「心中天網島」と、近松の代表的名作とされる狂言の二本立てです。

しかし、これらは必ずしも近松門左衛門の書いた原文通りではありません。

例えば、「心中天網島」「道行名残の橋づくし」のラストは、今は「後まで残る死顔に『泣き顔残すな』『残さじ』と気を取り直し一刀えぐる苦しき暁の見果てぬ夢と消え果てたり」で終わっていますが、

原作は「一蓮托生南無阿弥陀仏と踏外し 暫し苦しむ生瓢 風に揺らるる如くにて 次第に絶ゆる 呼吸の道息せきとむる樋の口に この世の縁は切れ果てたり」と、治兵衛の縊死体を風に揺られる生瓢にたとえ、それを朝見つけた漁師が「ヤレ死んだ 出会え出会え」と知らせる、という非常に突き放した筆致になっています。

 

「曽根崎心中」も野沢松之輔(西亭)改訂本で、原作のラスト「恋の手本となりにけり」が「森の雫と散りにけり」なのをはじめ、原文のさまざまな改悪、たとえば日本語文法ではありえない「人目の関のうたてなや」(「うたてし」ならまだわかる)が、オリジナルで挿入されているなど、演劇研究者にはつとに悪名が高いのです。

 

これは、人形一人遣いで書かれた近松の原作の文体のままでは、現代の三人遣いの文楽では処理できない、などの問題があるのでしょう。

私も演劇研究者の「原文に忠実に」という主張に首肯しつつ、文楽がいまに生きる側面がある以上、改変は文意と作者の意図を破壊せぬ以上ある程度やむを得ない、と思います。

近松の浄瑠璃は、後世の浄瑠璃に比べ、耳で聴いていて、正直私でも難しいと思うときがあります。名文過ぎるんですね。だから読んでみると実に面白い。

これを縦横に語ってみせた竹本義太夫と言う人は余程の傑物だったのでしょう。

近松の「吃又」から「名筆傾城鑑」、「冥途の飛脚」から「恋飛脚大和往来」、「心中天網島」から「時雨の炬燵」が生まれたのも、近松の原作を現行テクニックでは処理できないゆえの、先人たちの苦心の産物だったと言えるでしょう。ziseibun

今月の「曽根崎心中」の天神森、あそこは確かに近松の原作通りではない。しかし今月の舞台は玉男以来観て来た私から見ても、発散する官能とカタルシスは近来得がたいもので、原作との差異という詮索を忘れさせてしまう、三業一致の境地がありました。

原作通りか、現代に見合った改変か、難しい選択ですし、私自身すぐには結論が出ません。

無論これが近松の原文通りならより素晴らしいものであったでしょうしそれを目指すべきですが、それと、舞台芸術としての文楽の完成度とは自ずと次元が違う議論だと思います。


なまえ
犬丸 治   いぬまる・おさむ
演劇評論家
 1959年東京生れ。慶應義塾経済学部卒。
「テアトロ」「読売新聞」に歌舞伎評掲載。歌舞伎学会運営委員。著書「市川海老蔵」「歌舞伎と天皇 『菅原伝授手習鑑』精読」(いずれも岩波現代文庫)ほか。

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